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故郷の名前 (14枚)



私は列車に揺られながら、後にして来た暮らしを思い起していた。
それなりに希望を持ってやって来た都会。決して嫌いではなかった仕事。恋人までにはなれなかったけれどガールフレンドもいた。
あのまま、そんなに面白くも辛くもない生活が続いていれば、もっと生きがいも希望もある暮らしに変わって行くだろうという予感は強くあったのだけれど。

列車の窓の外の景色が灰色の都会のそれに、次第に緑がちらほら見え始めた。
そしてさらに列車は走り続け、緑の勢力が増し、青空の広く見える風景に変わっていた。

そんな、ありふれてはいたけれど、大切な物になりかけていた生活をあきらめなくてはならなくなったのはちょっとしたボヤが原因だった。
休日で、私が遅くまで寝ていたある朝に、小さなマンションの隣の部屋で火事騒ぎがあった。
その部屋の住人は起きていたのですぐに逃げ出したものの私だけが何も知らず眠っていた。
新建材の煙が私の部屋にまで充満しても、眠り続けていて、そのまま大量の煙を吸い込み、意識不明に陥ってしまったと、そう言う事らしかった。
ひどい頭痛を感じながら気がついたのは病院のベッドの上だったのだ。
しばらくして退院をしたものの、後遺症が残り、慢性的な頭痛と、記憶力の低下に悩まされた。
これまで通り勤めていた会社に一度復帰をしたけれど、仕事の能率が悪く、毎日のようにミスを犯した。
上役から退職を勧められた時には、なかばほっとしている自分がいた。このままでは重大な取り返しのつかないミスをいつかは犯すだろう予感があったのだ。

列車の外の景色はきれいだった。ますます緑が増え、色も鮮やかだった。天気も良く気持ちのいいはずの眺めだったけれど、それを見ている私の心は慢性的な憂鬱に支配されていた。
世界は何か薄いベールにでも包まれたように現実感がなく、慣れてしまっているはずのわずかな頭痛が、そんな車窓の景色を楽しむ事を妨げていた。
そして私は眠りに落ちた。
昼間でも突然に襲ってくるようになった眠りだった。

目を覚ますと見覚えのある駅のホームに列車は停まっていた。あわてて荷物を手に持ち通路を走り、降りるとすぐに列車は発車した。
改札口には駅員の姿はなかった。切符を回収するトレイが置いてあり、そこに私の切符を入れると駅舎の外に出た。
駅舎の建物を見ると、そこにあるはずの駅名表示の看板がなかった。私はふと不安になる。ここは本当に私の故郷なんだろうかと。
記憶をたどってみる。あの火事以来頼りなくなってしまったおぼろげな記憶。
まだ両親が健在で、兄夫婦が同居しているはずの私の実家がある場所を思い出そうとした。そしてその事にひどく自信がない事に気がついた。
実家の玄関を出て、左に六軒目に幼馴染の京子ちゃんがいる。一度嫁いだものの、帰って来ていると聞いたはずだ。
いや、ちがう。そこは子供の頃によく行った駄菓子屋があった場所だ。
京子ちゃんの家は…
考えれば考えるほど記憶に自信が持てなくなっていた。

しばらく思い出せないまま、その田舎町を歩いてみた。自分の住んでいた場所の名前や番地は住所録に書いてあったし、覚えてもいたけれど、町のどこにも所番地の表示が見つからないのだ。
人に聞いてみる事にした。
何の看板も上がっていない食料品や日用品を売っている小さな店先にいたおばあさんに聞いた。
「すみません。ここは夢凪(ゆめなぎ)町ですよね」
おばあさんはゆっくり振り返り「なんだって?」と笑顔で聞き返した。
「ここは夢凪町だと思うんですが?」
「ここは夢凪町なのかい?」
と、また聞き返される。
「そうだと思って列車を降りてしまったものですから」
「そうだよ。ここは夢凪町だよ」
私はそれを聞いて安心した。私の実家は夢凪町の隣町、虹彩町にあるのだ。
そうとわかれば後はタクシーに乗って、運んでもらうのが一番確実だと思って、駅まで引き返した。駅前に一台のタクシーが止まっていたのを思い出したからだ。
そのタクシーはまだそこにあった。
眠っていた運転手を窓をたたいて起こし、座席に座った時にまた急な眠気がやって来た。
「運転手さん、虹彩町に行ってください。番地はここに書いています」と運転手に紙切れを渡した。
「虹彩町って?」と運転手は聞き返した。
「いやだなー、この夢凪町の隣町じゃないですか」
「あー、そうか。新米なもんで」
タクシーが動き出した。駅前を通る時に駅舎の駅名の看板を見つけた。見落としていたのだろう。
その遠ざかる「夢凪駅」の看板を見ながら、ストンと眠りに落ちた。

「お客さん、着きましたよ」
運転手の声で目を覚ました。見覚えのあるようなないような町角だった。
時間はすでに夕暮が近いらしく影が多くなっていて、通りは少し霧のようなものでかすんでいた。
「ここが本当に虹彩町なんですか?」
私がそう聞くと、運転手は町名が書かれた電柱のプレートを指差した。
「虹彩町三番地27」
それは私が持っている住所録を書き写したさっき運転手に渡した番地に間違いはなかった。
タクシー代を払おうとして、代金が思ったよりずいぶん高くて驚いた。夢凪駅からはせいぜい20分ぐらいのはずだったのだ。
車から降りても、どちらへ歩けば実家があるのか判らず、歩き出せなかった。虹彩町の家々は次第に濃くなって来た霧にかすんでいて、少し離れるともうシルエットになってしまっていた。
いつまでも立ちすくんでいるわけにもいかずとりあえず、その時体が向いていた方へ歩き出した。そして初めに出会った人に聞いた。
「この辺に影崎と言う家がなかったでしょうか?」
「カゲザキさん?」と、その小柄なおじさんは首をひねった。
「影崎俊夫と言います。番地はこのへんなんですけれど」
「聞いた事がないなー」
「星角という洋服屋さんの斜め前だったんですが」
「洋服屋さんならそこだよ」
とおじさんが指をさす。霧がすうーっと引いて行くとその向こうの建物の看板が見えた。「星角洋装店」
「あ、ありがとうございます」と、私がお礼を言った時にはそのおじさんは霧の中に影だけ見え、それもすぐに消えてしまった。
星角洋装店の真新しい看板を見ながら通り過ぎ、私の実家と思われる家の前に立った。
近づくにつれてかすんでいた家の表札の文字が読めるようになった。
「影崎俊夫」
父の名前だった。確かに父の名前ではあったが、家の様子が記憶とは違っていたのだ。家を改築でもしたのかと思ったが、それにしてはずいぶん古そうな外壁が焼き板の日本家屋だった。
私の実家は外壁がモルタルの安普請ではあるがもう少し新しい建物だったような気がした。ふとまた記憶が揺らいで不安になる。
いや、ちゃんと表札には父の名前が書いてある。これが我が家だったのかもしれない。きっとそうだったんだ。そう思い込もうとした。
郵便受けのそばのチャイムのボタンを押した。
家の中からかすかにメロディーが聞こえ、それとともに人の気配がして引き戸が開いた。
顔を出したのは女の人だった。
「お…おふくろ?」
そうは言ったものの、その人の顔に見覚えがない事に困惑していた。
「おふく…影崎正代だよね?」
そう聞いたとたんにその女の人は笑顔になり「おかえりなさい!」と言いながら私の手を引っ張った。
間違いなくおふくろだった。なぜさっきは見覚えがない気がしたのだろう?これも後遺症なんだろうか?
背中を押されるようにして座敷に入ると、そこには父親が座っていた。
「おう。ようやく帰って来たか?まあ、まだ早いが風呂でも沸かすから入ればいい」
「只今…」
私はそう言いながら戸惑っていた。座敷から見える食堂にいる人物に見覚えがなかったのだ。
男性と女性と、男の子が一人。
三人とも黙ってこっちを見ていた。
「あ、兄貴だよね」一瞬名前が出て来なかった。
「影崎伸治?」
兄は笑顔になって「よう」と、手を挙げた。
「姉さん。敏子さんだね」兄嫁の名前を思い出すのにさっきより時間がかかった。
兄嫁は男の子の背中を押して言った。
「おじさんよ、何年ぶりかしら?」
男の子の顔は…
顔がなかった。いわゆるのっぺらぼう状態だったのだ。
そう言えば兄も、兄嫁も、顔に見覚えがなかっただけではなく、名前を口にするまではのっぺらぼうだったような気がした。
「けんちゃんだったね」必死に兄の子供の名前を思い出した。
「健輔くんだ!」
そう言った途端に男の子の顔は見覚えのある健輔の顔になった。そして笑顔で私の方に走って来た。
「ねえ、ゲームやらない?」
私は違和感を覚えた。そして居ても立ってもおられない胸騒ぎ。
「ちょっと近所を散歩してきます」と言い残して、走るように家を出た。

隣の家の前に立った。この家は「横水」と言う名前だったはずだ。
相変わらず霧が立ち込めていた。表札を見ようと近づいたが、何も書かれていない真新しい木の板がかかっているだけだった。
「横水伸一」
と、私が声に出して言うと、表札にその名前が浮かび上がった。
私の体が震え出すのがわかった。
通りを全速力で走った。
六軒目の家の前に止まる。表札にはやはりなにも書かれていなかった。
震える手でインターホンを押すと、「はーい。今出ます」と言う聞き覚えのない声。
ドアが開き出て来たのはやはり顔のない女の人だった。
「雨沢京子」と、私が口に出せばその人は京子ちゃんなのだろう。

私は走った。そしてキーがついたままの車を見つけると、エンジンをかけ、猛スピードで走らせた。
鉄道の踏切があったので線路沿いの道を選んだ。
やがて駅が見えてくる頃には霧はすっかり晴れていて、不思議な事に空はまだまだ明るかった。
駅前に車を乗り捨てると、最初にやって来た列車に乗った。
この駅にはちゃんと名前があった。
私の故郷の最寄り駅「夢凪駅」の五つ手前の駅だった。

いまさっき、私が迷い込んだ町は一体何だったのだろう?名前のない駅。名前のない町。私が名前を口にすると、その名前の駅になる。その口にした名前がその町の名前になる。
私の家族にしても…

駅を四つ数え、いよいよ次が私の故郷に帰るために降りる「夢凪駅」だ。本物の「夢凪駅」
ふと不安がよぎった。
あの名前のない町の名前のない駅、そして名前のなかった故郷の名前のなかった家族に私が名前を与えてしまった。そしてその為にあの街が現実に存在するようになったとしたら、はたして本当の私の故郷「虹彩町」は、まだそこにあるのだろうか?
不確実に存在していた町が名前を得る事によって、存在し始めてしまった今、まだそこにあるのだろうか?

その時「ギギギギギィー」という音と共に列車に急ブレーキがかかり、間もなく停車してしまった。
私は窓から顔を出し、列車の進行方向を見た。
車掌のアナウンスが何と告げるのかを、震えながら待っていた。



おわり



明日からちょっと忙しくなるので、早く寝ようと思いながら書かずにいられませんでした。
例によって書きあげてろくに校正もしないままアップしてますので、誤字脱字、おかしな文章ご容赦ください。
おいおいに直します。
まあ、このブログの作品はほとんどが未完成だと思ってもらってもいいです。
発表後もちょこちょこ手直しが出来るのがブログのいいところですね。


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# by marinegumi | 2012-05-24 01:35 | 短編小説(新作) | Trackback | Comments(4)

ワンダー海神ランド (6枚)



バー「海神」のランタンの光が雨の中でにじんでいた。
今日は朝からずっと雨で、鏑木が店を開けた頃には更に雨脚が強くなっていた。
客は常連が2,3人顔を見せただけで、いつになく暇な日だった。
今はその客もいなくなり、鏑木はグラスを一つ一つ丁寧に磨きながら閉店時間が来るのを待つとはなしに待っていた。
ふとバック棚に目をやる。
三段あったキープボトルの棚も一番上の段には造花が飾ってあり、下の二段も隙間が多くなっていた。
鏑木はキープしてあるボトルが全てなくなれば店を閉じるつもりでいた。
だから新規のボトルキープは断っている。
無意識にそのボトルを数えている自分に気がついて、途中でやめ、苦笑いをした。
「今日は早じまいだな」
そう呟くとカウンターを出て、さらに外に出るドアを押しあけた。

カラーンとカウベルが鳴る。

意外な事に雨はきれいに上がっていた。
わずかしか明かりのついていない商店街のまだ濡れている道路。
その道路に何か小さな影が見えた。
最近、ほとんど姿を見ない野良犬かと思ったが、それにしては動きがおかしかった。
ぴょんぴょんと跳ねている。
ウサギだった。
鏑木は目を丸くした。
ただのウサギなら誰かが飼っていたペットが逃げ出したのかと思ってそんなに驚かなかっただろう。
アスファルトの道をだんだん近付いて来るそのウサギは服を着ていた。
しかもタキシードだ。
そして、鏑木の目の前で懐から大きな懐中時計を取り出し、時間を確認した。
「おお。もうこんな時間だ!遅れちまうぞ」
そう言うとウサギは懐中時計を懐にしまい、鏑木の方を胡散臭そうに一瞥すると、猛スピードで跳ねながら次の角を曲って姿を消した。
しばらく唖然とウサギが消えた角を見ていた鏑木は気を取り直し、店の中に戻った。
「ウサギだ。ウサギだよな。しかもしゃべったぞ…」
ぶつぶつと呟きながらカウンターの上を片づけ始めた。手早く店じまいをして家に帰ろうと思った。
「マスターさん。さっきから何をきょろきょろしてらっしゃるの?」
カウンターには金髪の美女が座っていた。
「それからウサギがどうとか、おかしな独り言をおっしゃって」
彼女は青い瞳を少し細めて笑った。
「いらっしゃいませ。いつの間にいらしたんですか?」
鏑木はカウンターの中に入りながら目をこすった。
「よく言うわね。幻でも見てらしたの?ハイボールをくださいな」
鏑木はアーリーモーニングのロックを作って女の前に置いた。。
彼女は一口飲むと目の前にグラス持って来て揺らし、それを眺めながら言う。
「キープしてあるボトルがなくなると店を閉めるって言ってらしたわね?でも、幻を見るようになっちゃ、もうそろそろじゃないですこと?」
女はクククク…と笑った。
「そうかもしれませんね、大人になったあなたが見えるんですからね。アリスさん」
カウンター席のずっと奥を鏑木は見た。
照明の陰になっている席にいるのは、パイプをくゆらせる芋虫だった。
その向こうにはチェシャ猫や帽子屋もいる。
彼らは勝手に酒を棚から出して来て飲んでいたらしい。
「こっちにもバーボンをお出し!」
そう言ったのはハートの女王だ。彼女は自分で酒を用意する気はないらしい。
鏑木はフォアローゼスのロックを作って女王の前に置いた。
「大儀じゃ」

カラーンとカウベルが鳴った。
「海神」の店内は一瞬にして真っ暗になった。

鏑木は店に入って来ると、壁のスイッチを入れた。
真っ暗だった海神の店内は薄明るく照らされた。
更にいくつか照明のスイッチを入れるたびに少しづつ明るくなって行く。
当然、誰もいない。
いないはずなのだが…
鏑木はきょろきょろとあたりを見渡した。
何かの気配を感じたのだ。
昨日の酒の臭いが濃く残っているので、そんな気がしただけかもしれない。
彼は換気扇を回した。
その時、足元に何かの影が走ったような気がした。
「ウサギ?」
きょろきょろと足元を見る。
いやいやと、彼は頭を振ってその思いを振り払う。
「あり得ない物を見るようになったら、即、店をたたまなくちゃな…」
鏑木はカウンターの中に入り、別のスイッチを入れる。

今夜も海神のランタンに灯がともった。



おわり



この作品はおなじみ雫石鉄也さんの「とつぜんブログ」の「雫石鉄也ショートショート劇場」の中の「バー海神シリーズ」の設定をお借りしたパロディーになっています。
これは某掲示板に冗談半分で書いたものですが、それを元に今回きちんと作品の形にしてみました。


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# by marinegumi | 2012-05-15 01:39 | 掌編小説(新作) | Trackback | Comments(6)

ホネ貝 (14枚)



白い砂浜で、見たこともない貝殻を拾った。
ぼくときみが同時に見つけた。
細長い殻にまるで魚の骨のような突起が何本も突き出している白い貝殻。
ぼくはそれを壊れないようにそっと持ち上げて目の前に持ってくる。
きみとぼくは向かい合って同じようにそれを見つめた。
「きれいだねー」
きみの口びるがぽつんと開き、ささやくような声でそう言った。
その貝殻のたくさんの突起越しにきみの瞳が見えた。
きみは貝殻を見つめているけれど、ぼくはいつのまにか貝殻越しのきみを見つめていた。
そんなにも長くきみの顔をまともに見つめた事はなかった。
そして思った。
ぼくはきみの事が好きなんだと。
「好き」なんて言う言葉ではとても足りないぐらいに。
これからの長い長い年月はとてもきみなしでは考えられないと。
そう思いながらぼくは小さく震えていた。
ぼくたちが同時に見つけたそれは、ぼくたち二人の宝物だと思った。
そしてそれがぼくたちをずっと繋いでくれる、そんな気がした。

夏が終わり、きみは遠くへ引っ越すことになった。
それを聞いた時に、ぼくの時間は止まってしまった。
もやもやとした薄明るい希望に満ちていたこれからの年月がふっつりと途切れてしまった。
きみがいないこれからの年月なんてこれっぽっちも想像したこともなかったと言うのに。
初めて、眠れない夜を経験した。
そしてそれが何日も続いた。
きみがいなくなると聞いても、まだ幼かったぼくにはどうする事も出来なかった。
きみが引っ越してしまうと言うそれだけで、きみがもうこの世にいなくなるのと変わらなかったのだ。

最後の日、ぼくたちはあの日の砂浜にいた。
ぼくは大事に持って来た箱を開いた。
それにはあの日二人で拾った「ホネ貝」が入っていた。
きみに教えてあげようと、「ホネ貝」と言う名前を図鑑で調べた。
英名では「ヴィーナスの櫛(くし)」と言うんだという事も。
でもそんな事はどうでもよくなっていた。
「この貝殻はぼくたち二人が同時に見つけたよね」
ぼくがそう言うときみはこくりとうなづいた。
「だからこれは二人のものだから、ぼくだけが持っているのはおかしいよね」
ぼくたちは砂浜を歩き、岩場までやって来るとそこにある洞窟に入って行った。
きみが怖がるので一度も一緒に入った事はなかったけれど、今日はきみも何も言わず付いてきてくれた。
それほど深くない洞窟の、まだ光が届くところ。
大きな崩れ落ちた岩と洞窟の壁の間にあるすき間にそのホネ貝が入った箱を落としこんだ。
今の自分の力ではとても動かせない岩。
もしもまたきみと会う事が出来るとすればぼくはきっとこの岩を動かせるようになっている。
そんな気がした。
「いつかまた、ふたりが会えた時にこれを探しに来ようね」

君がいなくなってからの僕はと言えば、何か世界そのものが現実感を失ってしまったように感じていた。
誰かが僕に話しかけていても、それに気が付かずにいたり、小学校の授業でも先生の声もどこか遠くで聞えている感じだった。
頭が常に重く、世界と自分との間に目に見えない薄い壁がいつもあるように思えた。
学校の授業はもとより、遊びでも興味を持てるものは何もなく毎日をすごしていた。
それは中学校に入っても続いた。
そしていつからか、僕の中には君と別れたあの時の幼い自分がそのまま残っていて、どうでもいい新しい記憶が、その上にカサブタの様に積み重なって行っているだけのような気がした。

当然のように学校の成績も悪く、やっとのことで私立の高校に入れるぐらいだった。
高校でも友達もほとんど出来ずにすごし、クラブ活動をするでもなく、ただ毎日を消化するだけだった。
夏休みにはあの砂浜に何度かやって来た。
するとそのたびに、僕の中の幼い少年が君の事を思い出し、痛いほどに心を震わせるのだ。

働き出してからは、はっきりと体の調子が悪いのを自覚していた。
頭はいつもぼんやりとして、仕事で何度もミスをした。
そして慢性的な頭痛にも悩まされ始め、体もずっとだるかったけれど、病院へ行くほどでもないと思った。
その状態に慣れてしまっていたのだ。
毎日惰性で仕事に行き、帰って来ても何をするという事もなく過ごし、休日には時間をもてあました。
そして時々、自分の中の幼い少年が嘆いている事に気が付いては、それを紛らわそうと音楽を聞いた。

僕は一体何をしているんだろうと、考える事もあった。
もしも遠くへ行ってしまった君が僕の前に現れたとしたら、成長した君と対等に話し合える僕になっていなくちゃいけないのじゃないかと、そんな焦る気持ちがわずかにあった。
でもどうしようもなかった。
子供の頃に考えていた大人とは程遠い体だけ大人になってしまった自分に、虚しさを覚えるしかなかった。
そして、そんな僕の前に君は戻って来たのだ。

街角で見かけたときに、君の方が僕に気付かなければ、僕はそのまま逃げてしまっていただろうと思った。
でも、君は僕を見つけると幼い頃のあの笑顔で僕の名前を呼んでくれた。
「帰って来たのよ。前に住んでた家もそのまま残してあったの」
自分の事を喋ったり、僕の事を聞いてくれたり、いろいろ話しかけてくれる君の何もかもがまぶしかった。
そして僕はまともに返事も出来ず、笑顔も返せず、いたたまれない気持ちだった。
君の前にいる僕はどうしようもない君とはつりあいのとれないだめなやつなんだ。
それでも君は約束をしてくれた。
今度の日曜日にあの砂浜で会う事を。
君はちゃんとあのホネ貝の事を覚えてくれていた。
「一緒にあれを探しに行きましょ」
そう言ってくれた。
でも君は気が付いていたね。
僕がどうしようもない、頭の悪い冴えない大人になっちゃったことに。
そしてたぶん今度の日曜日に僕たちが会えば、それが最後になるんだろうと思っていた。

洞窟はそのままそこにあり、大きな岩は力だけは強くなった僕には難なく動かせた。
そして、ホネ貝が入っているはずの木の箱は、ほとんど腐っていてクッション材で包まれた中身が見えていた。
包みを広げるとあの時のままの真っ白い貝殻がそこにあった。
それをつまんでじっと見つめる君。
僕は同じように見るふりをして、貝殻の突起越しに美しく成長した君の顔を見ていた。
そしていまさら取り返しのつかない長い長い年月を悔やんでいた。
こうやって再会できるのなら、君に似つかわしい男になるようにもう一度あの時からの人生をやり直したいと、心から思っていた。
そしてその時、ひどい頭痛に襲われたのだ。
いつも感じる頭痛だったが、それを何倍にも増幅したような痛みだった。
顔をゆがめた僕に不審げな表情の君。
僕は無理矢理に笑顔を作って言った。
「そのホネ貝ね。君に持っていてほしいんだけど」
「ああ、これってホネ貝って言うんだ?」
君がそう言った時に、調べていながらその名前を君に教えていなかった事を思い出した。
「英名では「ヴィーナスの櫛(くし)」って言うんだよ。だからさ、女の人が持ってる方がいいと思う」
君は元通りの笑顔になった。
「よく知ってるのね」

何日かが過ぎ、僕はこれまでになく体調が悪くなった。
そして会社を休みがちになり、ある日を境に全く行かなくなってしまった。
毎日頭痛がひどく、その頭痛に比例して僕の中の君を思う少年の心が嘆き悲しむのがわかった。
大人の僕は、君の事を忘れようとしていた。
それが仕方がない事だと諦めようとしていた。
だけど。
今日は日曜日で君は君の家にいるに違いないけれど、会いに出かけるなんてとんでもないことだった。
会って何を言えばいいんだろう。
でも僕の中の少年は君を求めている。
どうしようもないほどに悲しい思いを僕にぶつけて来る。
僕はそれを無視をした。
無理やりに抑えつけようとしてもどうしようもなくそれは心を引き裂いた。
そして僕はその、僕の中のぼくをいつしか憎み始めていたのだ。
僕は自分の部屋に家族が入って来ないようにカギをかけベッドに横になっていた。
窓を開けて、外の景色を見ながら。

その時頭が割れるほどに痛んだ。
何かが僕の頭の中で暴れているような痛みだった。
僕は耐えきれずに上半身を起こしてベッドに座る。
痛む頭を押さえながら何かにすがりたい気持ちであたりを見回した。
部屋の中から外へ視線を向けた時、景色が真っ赤に染まるのが見え、同時に目の裏側に更にひどい激痛が走った。
頬を暖かい物が流れる感じがしたと思うと、ベッドの上に真っ赤な血が滴り落ちた。
それっきり何も見えなくなった。

ぼくはやっとのことで外へ出てきたんだ。
とても長い間閉じ込められていたその場所から。
君が目の前にいるのにそのままあきらめようとしている僕がもどかしかった。
ずっとずっと一緒にいるんだと心に誓ったのに諦めている僕が嫌だったんだ。
ぼくはもがいた。
ぼくを封じ込めている何かを思い切り引き裂き、蹴破り、ありったけの力でそこから抜け出した。
真っ赤に染まったベッドのシーツの上にぼくの大人の体が倒れているのを見た。
それはとても大きかった。
いや、ぼくがあまりに小さかったんだ。
ぼくはずっとあの僕の頭の中に閉じこめられていて、今ぼくが出てきたのは僕の右目の裏からだとわかった。
今その右の眼窩はうつろで血だらけだった。

ぼくは窓から外へ抜け出し、君の家を目指した。
ぼくは君をあきらめるわけにはいかなかったんだ。
ぼくの人生はずっと君と一緒の人生だったはずだったんだから。

小さな体ではあまりに遠い道のりだった。
ずっと僕の頭の中で閉じ込められていたぼくの体はひどくひ弱でどんどん体力がなくなって行くのがわかった。
走り続けるにつれ、皮膚が破れ、血が滴り、気が遠くなっていく。

やっと君の家が見えた時、ぼくの体からは殆どの肉が失われていた。

最後に見たのは白い骨だった。
いや、それはぼくの体ほどもあるホネ貝の突起が見えていたのだ。
そこが君の部屋の机の上だと言うのがわかった。
ぼくはあのホネ貝のそばに横になっていた。
やっと何とかここまでたどり着いたんだ。
ぼくの体もすっかり骨ばかりになっていて、君はたぶんぼくを見つけた時に、ホネ貝が二つになっていると思うに違いない。
そう思いながら幸せな気持ちに包まれていた。







おわり



昨日アップした「そのワインの名は」は昨日思いついて即アップしましたが、これは先日から書きかけていたものに昔のアイデアをプラスして今日書きあげたものです。
グロテスクリリカルてな感じでしょうか?(今思いついた名称です)


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# by marinegumi | 2012-05-13 17:15 | 短編小説(新作) | Trackback | Comments(8)

そのワインの名は (3枚)

バーのカウンターに、彼女は無言でうつむいて座っていた。
バーテンはさっき出した2杯目のバーボンのグラスが空になっているのを確認してから聞いた。
「何かお作りしましょうか?」
彼女はゆっくりと顔を上げる。
かなり酔っているようで、目がうつろだった。
「そうね。もうちょっと口当たりのいいお酒がいいわね」
「甘口のワインでもどうですか?」
「おねがい」
開店早々に入って来たその若い女は、バーボンウイスキーのロックを注文した。
それを一気に飲み干したのでバーテンは少々たじろいだ。
「もう一杯ちょうだい」
同じものを出すと、今度はちびちびと飲んでいたがやはり口に合わなかったのだろう。
「まったくもう。あいつなんか、あいつなんか。あんな女に…」
彼女はブツブツとつぶやいている。
何かわけありの様子で、やけ酒と言う感じだったが、バーテンは何も聞かないでいた。
ワインをグラスに少なめに入れ、彼女の前に置く。
それに口を着けた時、うつろだった彼女の眼が少し輝いたように見えた。
「これおいしいわね。何と言うワインなの?」
「これですよ」
バーテンが瓶ごとカウンターに置いて見せた。
「ふーん。何て読むのかしら?」
彼女はラベルの文字を目で追った。
BALON-DE-BALLS
「バロン・デ…バロスかな?いや違うわね」
彼女はグラスのワインを飲み干した。
「バルスだわ。バルス!
ドアが大きな音を立てて開き、店に若い男が駆け込んで来た。
「こんなところにいたのか?あれは誤解だったんだよ、シータ!いっしょに帰ろう」
その時、どこか遠くで振動音が聞こえ始め、次第に大きくなって行った。
彼女は自分の手を見た。
無意識のうちに握っていた飛行石が光を放っていた。

ラピュタの中のバー「天空」のバック棚から酒びんが落ち始めた。


おわり





仕事中でーす。
さっき思いついたのをアップしました。
もぐらさんちで、「風の谷のナウシカ」が話題になっていたので、こんなのが出来ちゃいました。

そうそう、この間の「天空の城ラピュタ」の放映で、「バルス!」の場面では、同時に「バルス!」とツイートした人が多くて、ツイッター史上最高の数だったらしいですね。
いやはや。




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# by marinegumi | 2012-05-12 16:29 | 掌編小説(新作) | Trackback | Comments(6)

オレンジ五つ (ツイッター小説)

一つ目


オレンジが一つ坂道の上の方から転がって来た。
僕はうつむいて歩いていたので誰が落としたのか判らないままそれを足で止めようとした。
するとそれは勢いよく跳ね返り、逃がしてしまった。
僕の後ろを歩いていた若い男がそれを両手で拾う。

「ありがとうございます」

輝くような笑顔の少女がその男に駆け寄った。






二つ目


つややかなオレンジが一つ僕の目の前にある。
街のカフェのテーブルの上。
さっき、君が別れの言葉と共に置いて行った。
それには君と僕の思い出のすべてが詰め込まれているとでも言うかのように、君は冷たく置き去りにしたんだ。

僕はそれを持って立ち上がった。
もういくつ目のオレンジになったんだろう。






三つ目


オレンジをひとつ、何カ月も観察した事がある。
初めは美しかった表面がつやを失い茶色の斑点が出てくる。
それが全体に広がる頃にはカビが発生した。
やがて乾燥して行き、全体に小さくなり、いびつな形になる。
今はすっかり干からび、あまり変化がない。

僕が今、殺したこの人も同じ様になるのだろうか。






四つ目


彼女の心が僕から離れているのは解っていた。
新しい彼が出来たのも知っていた。

大学の薬品棚からほんの少し工業用青酸カリを持ち帰った。
それを水に溶かし、オレンジの皮の上から注射器で一袋にだけ注入した。
それを今、彼女はおいしそうに食べている。

もしも最後に一つ残ったら、それは僕が食べるよ。






五つ目


朝、学校に向かうバスの窓から道路の上に一つのオレンジを見た。

そのオレンジが夕暮れの車が行き交う道路の上に奇跡の様に残っていた。
途中でバスを降り、車の流れが途切れた時にそのオレンジまで駆け寄った。
手を伸ばし、拾い上げようとした時に僕は見てしまった。
車に轢かれたオレンジと僕の死体を。





おわり




ツイッター小説です。
僕の書くツイッター小説は、「140文字以内」ではなくて、全部「ぴったり140文字」と言う事にこだわっています。
数え間違っていない限り(笑)140文字のはずです。

これまでは書き出しの同じツイッター小説をシリーズでやっていましたが、これはそれにはこだわらずにテーマを「オレンジ」に統一して書きました。


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# by marinegumi | 2012-05-02 10:25 | Trackback | Comments(8)
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海野久実が掌編小説やら短編小説を書いています。タイトルの後に原稿用紙換算の(枚数)があるのが小説です。


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