
私は列車に揺られながら、後にして来た暮らしを思い起していた。
それなりに希望を持ってやって来た都会。決して嫌いではなかった仕事。恋人までにはなれなかったけれどガールフレンドもいた。
あのまま、そんなに面白くも辛くもない生活が続いていれば、もっと生きがいも希望もある暮らしに変わって行くだろうという予感は強くあったのだけれど。
列車の窓の外の景色が灰色の都会のそれに、次第に緑がちらほら見え始めた。
そしてさらに列車は走り続け、緑の勢力が増し、青空の広く見える風景に変わっていた。
そんな、ありふれてはいたけれど、大切な物になりかけていた生活をあきらめなくてはならなくなったのはちょっとしたボヤが原因だった。
休日で、私が遅くまで寝ていたある朝に、小さなマンションの隣の部屋で火事騒ぎがあった。
その部屋の住人は起きていたのですぐに逃げ出したものの私だけが何も知らず眠っていた。
新建材の煙が私の部屋にまで充満しても、眠り続けていて、そのまま大量の煙を吸い込み、意識不明に陥ってしまったと、そう言う事らしかった。
ひどい頭痛を感じながら気がついたのは病院のベッドの上だったのだ。
しばらくして退院をしたものの、後遺症が残り、慢性的な頭痛と、記憶力の低下に悩まされた。
これまで通り勤めていた会社に一度復帰をしたけれど、仕事の能率が悪く、毎日のようにミスを犯した。
上役から退職を勧められた時には、なかばほっとしている自分がいた。このままでは重大な取り返しのつかないミスをいつかは犯すだろう予感があったのだ。
列車の外の景色はきれいだった。ますます緑が増え、色も鮮やかだった。天気も良く気持ちのいいはずの眺めだったけれど、それを見ている私の心は慢性的な憂鬱に支配されていた。
世界は何か薄いベールにでも包まれたように現実感がなく、慣れてしまっているはずのわずかな頭痛が、そんな車窓の景色を楽しむ事を妨げていた。
そして私は眠りに落ちた。
昼間でも突然に襲ってくるようになった眠りだった。
目を覚ますと見覚えのある駅のホームに列車は停まっていた。あわてて荷物を手に持ち通路を走り、降りるとすぐに列車は発車した。
改札口には駅員の姿はなかった。切符を回収するトレイが置いてあり、そこに私の切符を入れると駅舎の外に出た。
駅舎の建物を見ると、そこにあるはずの駅名表示の看板がなかった。私はふと不安になる。ここは本当に私の故郷なんだろうかと。
記憶をたどってみる。あの火事以来頼りなくなってしまったおぼろげな記憶。
まだ両親が健在で、兄夫婦が同居しているはずの私の実家がある場所を思い出そうとした。そしてその事にひどく自信がない事に気がついた。
実家の玄関を出て、左に六軒目に幼馴染の京子ちゃんがいる。一度嫁いだものの、帰って来ていると聞いたはずだ。
いや、ちがう。そこは子供の頃によく行った駄菓子屋があった場所だ。
京子ちゃんの家は…
考えれば考えるほど記憶に自信が持てなくなっていた。
しばらく思い出せないまま、その田舎町を歩いてみた。自分の住んでいた場所の名前や番地は住所録に書いてあったし、覚えてもいたけれど、町のどこにも所番地の表示が見つからないのだ。
人に聞いてみる事にした。
何の看板も上がっていない食料品や日用品を売っている小さな店先にいたおばあさんに聞いた。
「すみません。ここは夢凪(ゆめなぎ)町ですよね」
おばあさんはゆっくり振り返り「なんだって?」と笑顔で聞き返した。
「ここは夢凪町だと思うんですが?」
「ここは夢凪町なのかい?」
と、また聞き返される。
「そうだと思って列車を降りてしまったものですから」
「そうだよ。ここは夢凪町だよ」
私はそれを聞いて安心した。私の実家は夢凪町の隣町、虹彩町にあるのだ。
そうとわかれば後はタクシーに乗って、運んでもらうのが一番確実だと思って、駅まで引き返した。駅前に一台のタクシーが止まっていたのを思い出したからだ。
そのタクシーはまだそこにあった。
眠っていた運転手を窓をたたいて起こし、座席に座った時にまた急な眠気がやって来た。
「運転手さん、虹彩町に行ってください。番地はここに書いています」と運転手に紙切れを渡した。
「虹彩町って?」と運転手は聞き返した。
「いやだなー、この夢凪町の隣町じゃないですか」
「あー、そうか。新米なもんで」
タクシーが動き出した。駅前を通る時に駅舎の駅名の看板を見つけた。見落としていたのだろう。
その遠ざかる「夢凪駅」の看板を見ながら、ストンと眠りに落ちた。
「お客さん、着きましたよ」
運転手の声で目を覚ました。見覚えのあるようなないような町角だった。
時間はすでに夕暮が近いらしく影が多くなっていて、通りは少し霧のようなものでかすんでいた。
「ここが本当に虹彩町なんですか?」
私がそう聞くと、運転手は町名が書かれた電柱のプレートを指差した。
「虹彩町三番地27」
それは私が持っている住所録を書き写したさっき運転手に渡した番地に間違いはなかった。
タクシー代を払おうとして、代金が思ったよりずいぶん高くて驚いた。夢凪駅からはせいぜい20分ぐらいのはずだったのだ。
車から降りても、どちらへ歩けば実家があるのか判らず、歩き出せなかった。虹彩町の家々は次第に濃くなって来た霧にかすんでいて、少し離れるともうシルエットになってしまっていた。
いつまでも立ちすくんでいるわけにもいかずとりあえず、その時体が向いていた方へ歩き出した。そして初めに出会った人に聞いた。
「この辺に影崎と言う家がなかったでしょうか?」
「カゲザキさん?」と、その小柄なおじさんは首をひねった。
「影崎俊夫と言います。番地はこのへんなんですけれど」
「聞いた事がないなー」
「星角という洋服屋さんの斜め前だったんですが」
「洋服屋さんならそこだよ」
とおじさんが指をさす。霧がすうーっと引いて行くとその向こうの建物の看板が見えた。「星角洋装店」
「あ、ありがとうございます」と、私がお礼を言った時にはそのおじさんは霧の中に影だけ見え、それもすぐに消えてしまった。
星角洋装店の真新しい看板を見ながら通り過ぎ、私の実家と思われる家の前に立った。
近づくにつれてかすんでいた家の表札の文字が読めるようになった。
「影崎俊夫」
父の名前だった。確かに父の名前ではあったが、家の様子が記憶とは違っていたのだ。家を改築でもしたのかと思ったが、それにしてはずいぶん古そうな外壁が焼き板の日本家屋だった。
私の実家は外壁がモルタルの安普請ではあるがもう少し新しい建物だったような気がした。ふとまた記憶が揺らいで不安になる。
いや、ちゃんと表札には父の名前が書いてある。これが我が家だったのかもしれない。きっとそうだったんだ。そう思い込もうとした。
郵便受けのそばのチャイムのボタンを押した。
家の中からかすかにメロディーが聞こえ、それとともに人の気配がして引き戸が開いた。
顔を出したのは女の人だった。
「お…おふくろ?」
そうは言ったものの、その人の顔に見覚えがない事に困惑していた。
「おふく…影崎正代だよね?」
そう聞いたとたんにその女の人は笑顔になり「おかえりなさい!」と言いながら私の手を引っ張った。
間違いなくおふくろだった。なぜさっきは見覚えがない気がしたのだろう?これも後遺症なんだろうか?
背中を押されるようにして座敷に入ると、そこには父親が座っていた。
「おう。ようやく帰って来たか?まあ、まだ早いが風呂でも沸かすから入ればいい」
「只今…」
私はそう言いながら戸惑っていた。座敷から見える食堂にいる人物に見覚えがなかったのだ。
男性と女性と、男の子が一人。
三人とも黙ってこっちを見ていた。
「あ、兄貴だよね」一瞬名前が出て来なかった。
「影崎伸治?」
兄は笑顔になって「よう」と、手を挙げた。
「姉さん。敏子さんだね」兄嫁の名前を思い出すのにさっきより時間がかかった。
兄嫁は男の子の背中を押して言った。
「おじさんよ、何年ぶりかしら?」
男の子の顔は…
顔がなかった。いわゆるのっぺらぼう状態だったのだ。
そう言えば兄も、兄嫁も、顔に見覚えがなかっただけではなく、名前を口にするまではのっぺらぼうだったような気がした。
「けんちゃんだったね」必死に兄の子供の名前を思い出した。
「健輔くんだ!」
そう言った途端に男の子の顔は見覚えのある健輔の顔になった。そして笑顔で私の方に走って来た。
「ねえ、ゲームやらない?」
私は違和感を覚えた。そして居ても立ってもおられない胸騒ぎ。
「ちょっと近所を散歩してきます」と言い残して、走るように家を出た。
隣の家の前に立った。この家は「横水」と言う名前だったはずだ。
相変わらず霧が立ち込めていた。表札を見ようと近づいたが、何も書かれていない真新しい木の板がかかっているだけだった。
「横水伸一」
と、私が声に出して言うと、表札にその名前が浮かび上がった。
私の体が震え出すのがわかった。
通りを全速力で走った。
六軒目の家の前に止まる。表札にはやはりなにも書かれていなかった。
震える手でインターホンを押すと、「はーい。今出ます」と言う聞き覚えのない声。
ドアが開き出て来たのはやはり顔のない女の人だった。
「雨沢京子」と、私が口に出せばその人は京子ちゃんなのだろう。
私は走った。そしてキーがついたままの車を見つけると、エンジンをかけ、猛スピードで走らせた。
鉄道の踏切があったので線路沿いの道を選んだ。
やがて駅が見えてくる頃には霧はすっかり晴れていて、不思議な事に空はまだまだ明るかった。
駅前に車を乗り捨てると、最初にやって来た列車に乗った。
この駅にはちゃんと名前があった。
私の故郷の最寄り駅「夢凪駅」の五つ手前の駅だった。
いまさっき、私が迷い込んだ町は一体何だったのだろう?名前のない駅。名前のない町。私が名前を口にすると、その名前の駅になる。その口にした名前がその町の名前になる。
私の家族にしても…
駅を四つ数え、いよいよ次が私の故郷に帰るために降りる「夢凪駅」だ。本物の「夢凪駅」
ふと不安がよぎった。
あの名前のない町の名前のない駅、そして名前のなかった故郷の名前のなかった家族に私が名前を与えてしまった。そしてその為にあの街が現実に存在するようになったとしたら、はたして本当の私の故郷「虹彩町」は、まだそこにあるのだろうか?
不確実に存在していた町が名前を得る事によって、存在し始めてしまった今、まだそこにあるのだろうか?
その時「ギギギギギィー」という音と共に列車に急ブレーキがかかり、間もなく停車してしまった。
私は窓から顔を出し、列車の進行方向を見た。
車掌のアナウンスが何と告げるのかを、震えながら待っていた。
おわり
明日からちょっと忙しくなるので、早く寝ようと思いながら書かずにいられませんでした。
例によって書きあげてろくに校正もしないままアップしてますので、誤字脱字、おかしな文章ご容赦ください。
おいおいに直します。
まあ、このブログの作品はほとんどが未完成だと思ってもらってもいいです。
発表後もちょこちょこ手直しが出来るのがブログのいいところですね。
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バーのカウンターに、彼女は無言でうつむいて座っていた。







