記憶の窓 (12枚)

ある新聞の地域版に小さな記事が載った。
一人の男性が行方不明になった事を伝える、不鮮明な顔写真の添えられた短いものだった。男性はアルツハイマー患者で、ひどい記憶障害を起こし、家族が目を離した隙に近所を徘徊する事も何度かあったと言う。
その新聞記事が何人の人の目に触れたのだろう?
日を追うごとにその記事の載った新聞は、古新聞置場の下の方になり、廃品回収に出され、また宅急便の荷物のクッション代わりに箱に詰められ、また押し入れの中に敷かれたり、家庭菜園で作られた野菜を包むために使われ、焚火の中で燃やされたり、風の強い日に外に置いていた新聞が吹き飛ばされ、その記事の載ったページが水にぬれて破れ、乾いて空に舞い、町の並木に引っかかり、ちぎれ、その記事を含む小さな切れ端となって更に飛んで行く。
その出来事が人々の記憶から忘れられるように、何万部も印刷されていた新聞その物もいろんな形で失われて行った。しかし確実にその何パーセントかは、いつまでも残っているのもまた確かな事だった。


隆志が目覚めるとカーテンのない部屋に夕陽が差し込んでいた。
まず自分は誰なのかを考え始める。桧山隆志。それに間違いはないと確信するまで何度かその名前を声に出さずに口の中で呟く。
古びた畳に敷かれた布団から起き上がろうとして、足を回して布団の外へ出した時、ふと違和感を覚えた。
足が下がらない。
ベッドだ。ベッドで寝ていた時の記憶が隆志にはあった。もちろん短い期間、病院に入った事もあるにはあったが、その記憶ではない。家での毎日の事で、体が覚えている気がしたのだ。
ふと、明るい洋間の大きな窓から見える住宅街の景色が頭をよぎった。しかし、今この部屋から見える窓の外の景色は、手前に柿の木が1本あり、その向こうには山々が連なっていた。窓自体も木製の窓枠に薄汚れ、何枚かはひびの入ったガラスの小さな窓だった。少しの風でもガタガタ音を立てるかなり古い、傷むにまかせた窓。

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それ以上はベッドの部屋の記憶は辿れなかったが、そんな事はどうでもいい。ともすれば自分の名前さえ、思い出せなくなる時があるのだから。
「斉木良雄」と言う名前が不意に浮かんだ。「さいき」?誰だそれは。と隆志は布団の上に座ったままで考えた。「えやま」だ。桧山隆志。それが自分の名前じゃないか。
部屋の壁には紙が貼ってあった。それには確かに「桧山隆志 昭和11年4月25日生まれ」と書いてあった。隆志が忘れないようにと、孫娘の裕子が書いてくれたものだ。
裕子の笑顔がふと浮かんだ。やさしい子だった。孫たちの中でも特に隆志にやさしくしてくれる。裕子以外の孫の顔が浮かびそうになるが、一人も思い出せなかった。いや、それよりも裕子のほかに孫がいるのだろうか?いたような気が強くした。しかし一人として顔を思い出せなかった。
隆志の記憶はそういうふうに毎日空回りを続けるばかりだったのだ。


隆志が起き出してふすまを開けるとそこには息子が卓袱台の前に座って酒を飲んでいた。仕事もせずに毎日ゴロゴロするばかりで、夕方になると酒を飲み始める。
そんな息子に仕事をするようにと説教をするのも親の役目だと思った隆志は声をかけた。
「おい、仕事は見つかったのか?友之」
息子の顔色がさっと変わった。
「俺の名前は隆文だろ!?息子の名前ぐらい、いくら認知症でも覚えとけよ!」と言うと酒を飲み干した。
隆文の顔を見ながらまた違う記憶が頭をよぎる。「友之」という息子がいた記憶。一瞬その笑顔が浮かび、シャボン玉のようにはじけた。
「おやじ!部屋へ入っていろ」と隆文は彼を自分の部屋へ押し戻した。

窓から外を見ると板塀が視線を遮っていた。その板塀の上に山が見えるだけだった。長い間、それももう何年も他人の顔を見ていない様な気がした。
夕陽が山の向こうに沈み、空がだんだん明るさを失って行くそんな時間。玄関の方で人の話し声が聞こえた。
「ここにハンコをお願いします」と言う男性の声。
何か荷物が届いたようだった。

すっかりあたりが暗くなった6時過ぎに裕子が自転車で帰って来る音が聞こえた。玄関へ入って「ただいま」と声をかけるが、隆文は返事をしない。
「あ、荷物が届いてるね」と嬉しそうな声がする。
しばらくして隆志の部屋のふすまが開き裕子が入って来た。
「おじいちゃん、これ見て」と言いながら段ボールの箱を持って入って来た。
「先月のバイト代で、これ買っちゃった」と新聞紙を丸めた詰め物の中から段ボールの箱の3分の1ぐらいしかない小さな箱を取り出した。
「ほら、可愛い靴でしょ?」と裕子は箱を開けてそのピンクの靴を取り出して隆志にとびきりの笑顔を見せた。
隆志はその笑顔にいつも癒されるのだった。
「ちょっと履いて歩いて来ようかな」と段ボールの箱を残したまま部屋を出て行く。あたりには丸めた新聞紙が散らばっていた。
「やれやれ‥」と言いながら新聞紙を拾い上げ、段ボールに入れようとしたその時、ふとその新聞の記事の写真に目が行った。広げてみるとどこかの都市の地域版だった。

認知症の老人が行方不明
6月18日、市内中島町に住む斉木友之さんから父親の良雄さんの行方が判らないと警察に届けがあった。斉木さんはアルツハイマーによる認知症で記憶障害がひどく、これまでに何度か徘徊を繰り返したが、毎回近所の人によって無事に連れ戻されていた。今回は家を出てからすでに3日経っており、その行方が心配されている。


その新聞の日付を見ると、5年前のものだった。
斉木良雄と言う名前にはその時は何も感じなかった。しかし、その写真は、なんと自分にそっくりだったのだ。
それを見ている隆志の手が細かく震え出した。なぜだか解らない。体が勝手に反応しているのだ。斉木良雄。良雄?隆志?頭の中が混乱していたが、ふと記憶が鮮明になる。
そうだ、自分は「斉木良雄」だとはっきりと判った。この新聞の記事にある中島町の3丁目14番地に住んでいたのだ。周りに山の見えない住宅地で、二階の洋間が自分の部屋だ。いつもベッドで寝起きをしていた。
それがなぜこんなところにいるんだろうか?壁に貼られた紙を見る。「桧山隆志 昭和11年4月25日生まれ」
そう、それは裕子が書いてくれた自分の名前と生年月日。しかし。
ふと、隆志は少し前のテレビのニュースを思い出した。年金を給付されている老人が死んだのを隠したまま、その息子が年金を受け取り続けていた事件。仕事もせずに年金だけが収入だったと言う。それと似たようなケースが多発しているというニュース。
隆志は居ても立ってもいられなくなり、外へ出ようと数歩歩いた。畳の下の板がギシッと音を立てて少し沈んだ。
畳を見つめながらひどい胸騒ぎを感じていた。ここは1階だから、当然この下は地面になっている。ふと、嫌な匂いを感じたように思ったがそれは気のせいだった。もしそうだとしても、5年以上前の話だ、匂いがするわけがない。
ふとまた記憶が曖昧になる。良雄ってだれだ?さっきまで鮮明だった記憶がもう霧の向こうにかすんでしまう。
ふすまが開いて、裕子が入って来た。
「おじいちゃん。ごめんね、散らかしたままだったね」と言いながら新聞紙を片づける。1枚だけ広げてある新聞に目をやると隆志を横目で見て、一瞬真顔になり、またすぐに笑顔に戻って、その新聞を丸めると段ボール箱に入れてそのまま持って出て行ってしまった。
「桧山隆志 昭和11年4月25日生まれ」
隆志は壁に貼られたその紙に書かれている自分の名前と生年月日を確認する。
そう、記憶障害を起こしている自分にとって、それが自分が自分だと確認するための大切なものだった。
裕子の笑顔とそれだけが頼りなのだ。



おわり



この作品は今朝の散歩の時に思いつきました。
最初はタイトルが「曖昧ME(アイマイミー)」で、コミカルな内容にするはずだったのが、ちょっと重い内容になってしまいましたね。

だけど、最近はなぜか頭の中だけでストーリーをどんどん展開させて行くのが苦手になって来ています。
キーボードを打ちながらでないと進まないんです。
以前は反対だったんですよね。
頭の中で細部まで考えて、ノートに下書きをして、パソコンの前ではそのノートから清書すると言う感じでした。
良くわかりませんが、何か僕自身に変化があったんでしょうか?

書き上げてろくに校正もせず即アップ。
おかしな所はこれから直します。

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Commented by ヴァッキーノ at 2011-02-23 21:13 x
オチへ向かうというよりも、オチが知らないどこから歩いてきて、目の前のドアをノックもせずに入ってきたといった感じのオチでしたね。
ゼリーを噛み砕くみたいな。

タカシっていう主人公は矢菱さんもボクもよく使うんです。
タカシ。
なんとも無個性な名前なので、どこにでも当てはまります。
白いご飯みたいで、いい名前ですよね。
Commented by haru123fu at 2011-02-23 21:24
読み始めから、じわじわと不安が忍び寄ってくるような
感覚で読んでいました。そしてそれがピークに達した時、
人間の尊厳が冒される恐れに変わりました。
記憶出来ないから書くということ。
書いてもらって、いつも確認するということ。
私が、いつもばあちゃんにしていることです。
同じ話を何度もします。そして同じ所で一緒に笑います。
耳にたこが出来るほど同じ話でも、ばあちゃんの笑った顔が
大好きなので、同じ所でいつものように一緒に笑います。
そこには、守られなければならない人間の尊厳があると
思っています。
老人性アルツハイマーは、いつか誰もが行く道です。
娘を見ると来た道が、母を見ると行く道が。。。
この老人の心細さや不安が我が身に迫ってきました。

海野さんみたいに、迫力のあるお話が書けるようになると
いいなぁ~なんてムリムリ(´・ω・`)ショボーン

Commented by 春待ち りこ at 2011-02-24 15:48 x
よく出来たお話ですね。
ナゾトキ感覚がいいです。

あっ。。。と気付いた時の爽快感
楽しみました。

重たい題材ですけど
以前の記憶が全てなくなる
。。。っていうことを前提にして言えば

それがたとえ、仕組まれたものだったとしても
笑ってくれる孫のいる生活は
彼にとって、不幸とは言い切れないのかも。。。
なんて思ってしまいました。
ちょっと、不謹慎かな。(汗)
Commented by りんさん at 2011-02-24 20:36 x
ちょっと怖いお話ですね。
息子がやけに冷たいなと思ったら、そういう事だったんですね。この人が働かないから、裕子さんはこんなことを思いついちゃったのでしょうか。
認知症にはなりたくないですね。
しみじみ思っちゃいました。
Commented by marinegumi at 2011-02-24 23:52
ヴァッキーノさんこんばんは!
オチの例え方がブンガクしてますね。
オチを悟られないように気を遣いすぎたのかもしれないなー

今回の登場人物はぶっつけ本番で考えて行きました。
この人の名前が必要だなーと言うところまで来るとその場で考えたんです。
そうかー、タカシってそんな名前だったんですね。
男の名前でなんかないかなーと言う時に出て来やすいのかも。
Commented by marinegumi at 2011-02-25 00:03
haruさんこんばんは。
このお話、実際に認知症の方が家族にいらっしゃる人が読むとどうなんだろうかとちょっと心配しながら書きました。
>この老人の心細さや不安が我が身に迫ってきました。
いやな感じを持たれなければよかったと思います。
haruさんのおばあちゃん、なんだかかわいらしいおばあちゃんみたいですね。

迫力があるなんて言ってもらえてちょっと恥ずかしい。
ぼくだって、haruさんや、りんさん、りこさんのようなほんわかしたお話が書きたいと思う事もあるんですから、お互い様ですけどね。
なかなかアイデアが浮かばないときは何でみんなこんなに楽しいお話が書けるんだろうと、ちょっと心細くなります(笑)

Commented by marinegumi at 2011-02-25 00:14
りこさんこんにちは。
>ナゾトキ感覚
それそれ、と言う感じです。
アルツハイマーでなくても、人間の記憶の曖昧さと言うのをもっと書いて行きたいんですけどね。
このブログの「蔦の家」もそういう作品ですよ。

>笑ってくれる孫のいる生活は
>彼にとって、不幸とは言い切れないのかも

そうでしょうね。
裕子は隆志の事を本当のおじいさんのように思っていると言う設定ですから、前の生活を思い出さないでほしいと願っているんです。
問題は息子ですね。
Commented by marinegumi at 2011-02-25 00:23
りんさんこんばんは。

>裕子さんはこんなことを思いついちゃったのでしょうか

設定では、こういう事を思いついたのは息子の方なんですよね。
裕子は仕方なくそれをフォローしていると言う感じです。
生活がかかってますからね。
隆志はある日ふらっと出かけてしまい、なんとなく電車に乗って遠くの町に来てしまう。
その街で歩けなくなって困っている隆志を家に連れてきたのは裕子かな。
おじいさんが死んでしまって、年金を続けててもらうためにその亡骸を床下に埋めたけれど、そのうちばれるかもと不安を抱いていた息子が、隆志を身代わりにすることを思いつく。
と言う感じでしょうか。

Commented by サイトー at 2011-02-27 06:59 x
なかなかナゾトキ要素満点の作品ですね。
これから校正されるとのことですが、最初の段落が蛇足かもしれませんね。
なくても話は十分に伝わると思いますよ。
Commented by marinegumi at 2011-02-28 23:08
サイトーさんおはようございます。
やはり必要ないでしょうか、プロローグ。
この話を思いついた時に、まずその最初の段落を書いてみて、数時間考えた後、一気に書き上げたんですね。
なくてもいいとは思いますが、出発点みたいな感じで、捨てがたかったんですね。
読み返してひとつ思ったのは、このプロローグがなかったら宅急便の荷物にあの新聞記事が偶然に入ったものか、だれかが故意に入れたものか、読者が混乱するんじゃないかなと思いました。
それはどこかほかの場所で、説明するかですね。
ちょっと救いのない話に詩的な情景描写を入れたかったと言うのもあります。
by marinegumi | 2011-02-23 20:31 | 短編小説(新作) | Comments(10)