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シナモンの枝 (6枚)

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ゆったりと目が覚めた。
目覚ましの音に起こされるのではなく、自然に目がさめたんだ。
きょうは学校はおやすみ。
とてもいい気分。
さっきまで何だかふんわりした夢を見ていたような気がしたけれど何も思い出せなかった。
起き上がってベッドから床に足を降ろした時、スリッパの横に何かが落ちているのが見えた。
拾い上げるとどうやらパンくずみたいだった。
指先で押さえてみるとまだやわらかだった。
変なにおいもしなかったからそんなに古いものじゃないようだ。
でもわたし、寝室でパンなんか食べたりしたことはなかったはずだよ。
部屋を出ようとしてドアノブに手をかけた時、そこにもパンくずが落ちているのに気がついた。
ドアを開けると廊下にもパンくずが転々と続いている。
パン屑に誘われるようにして階段を降り、外へ出る玄関のドアの前まできた。
ドアには鍵が掛かっている。
パパもママもまだ眠っている時間だからね。
ドアを開くと庭の敷石の上にもパンくずは続いていた。
それをずっとたどって庭を出て、街へ出て、たくさんの自動車の通る道路の歩道を何ブロックも歩いた。
まだ寝起きの目にはお日様がまぶしかった。
歩いて歩いて、歩き続けた。
これまでのパンくずをひとつにまとめると、多分もうコッペパン5個ぐらいにはなったかもしれないぐらい歩き続けた。
建物が少なくなり、パンくずは緑の木々の間の道の上に続いていた。
道はだんだん細くなって行って、とうとう大きな森の中へやって来てしまった。
その森を奥へ奥へと歩くうちにわたしはぼんやりと思い出していた。
昨日見た夢の中の出来事を。
夢の中におばあさんの住む家があったんだよね。
わたしが通りかかった時、おばあさんが急に家の中から飛び出してきたんだ。
「ああ、困った困った。シナモンの枝がなくなってしまった」
そう言いながら頭を抱えているおばあさんとわたしの目が合った。
「だれだい?あんたは」
わたしは正直に自分の名前を言った。
「ふん。そんなへんてこな名前の女の子なんて知らないね」
「何に困ってるんですか?」
と、わたしは聞いてあげた。
「魔法を使うのに絶対必要なシナモンの枝がなくなったのさ。たぶん小鬼の奴が持ってったに違いない。シナモンの木はこの森には生えていないと言うのにさ。ああ、困った困った」
「シナモンの木ならうちの庭に生えてたわよ」
「そ、それはどこなんだい?お前の家はどこだ?」
わたしは家の所番地を言ったけれど全然わからないみたいだ。
だって今わたしは夢を見てるんだから。
おばあさんは夢の中の住人だし、わからなくても仕方がない。
「おお、どうかそのシナモンの枝を一本切って来ておくれ」
わたしは自分が今、夢を見ているんだと言う事を説明した。
「そうか。それならば歩いて帰ればいいさ。このパンを持ってお行き。小さくちぎりながら道に落として行って、帰って来るときの目印にするんだよ」
そう言っておばあさんはわたしの背の半分ぐらいある大きなパンを渡してくれた。
「でも帰り道がわからないわ。まあ、目が覚めれば自然と帰れるとは思うけど」
「だめだめ。目が覚めて帰ったんではここに戻って来られないのさ。歩いて帰らなくちゃね。このまま森のはずれまで行って、そこから先は目をつぶって時々パンくずを落しながら歩くんだよ。必ず帰れるから。そしてちゃんと帰れたらシナモンの枝を持ってパンくずを目印にもう一度来ておくれ。頼んだよ」
そうなんだよね。
そんな夢を確かに見たんだよ。
森の中の道をおばあさんの家の前まで来た時にはすっかりその夢を思い出していたんだ。
そしてシナモンの枝を持って来るのまで忘れていたことを。
その時、おばあさんが足音を聞きつけたのか、家から飛び出してきた。
「シナモンの枝はあったかい?!」
「そ、それが……」
わたしはおばあさんに今までの事をお話しした。
「そうかいそうかい。それはしかたがないね。もう一度、今度は忘れないようにメモを書いて持って行けばいいよ」
そう言うとお婆さんは羊皮紙にインクをたっぷり付けたペンでこう書いたんだ。
『シナモンの枝を一本。森の中の家へ』
わたしはそれを手に持ってもう一度家に歩いて帰る事になった。
今度はパンくずを落としながらではなくてね。
そして森の外れまで歩いて来ると……

ゆったりと目が覚めた。
目覚ましの音に起こされるのではなく、自然に目がさめたんだ。
きょうは学校はおやすみ。
でもなんだかまだ眠い。
さっきまで長い長い夢を見ていたような気がしたけれど何も思い出せなかった。
ふと手を見ると何か紙のようなものをわたしは握っていた。
広げてみる。
『シナモンの枝をありがとう。一生恩に着るよ』
何のことやら訳がわからなかった。
それに、ぐっすり眠ったにしては足が痛くて、なんとなく疲れていたんだよね。

すぐに二度寝しちゃって、昼ご飯に呼ばれるまで目が覚めなかった。



おわり



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by marinegumi | 2016-04-03 00:49 | 短編小説(新作) | Comments(0)

猫のカノン (13枚)

わたしとダンシリーズ 2

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猫のカノンにウイルス感染症予防のワクチンを接種するというので、屋敷に獣医さんがやって来た。
ママが手配したらしい。
でも肝心の時にママはいないし、カノンも獣医さんの気配を察したかどこかへ雲隠れだ。
前に一度、この獣医さんには同じワクチン接種のときに痛い目にあったのを覚えているんだと思う。
わたしはいつものように、ダンにお姫様抱っこされて広い庭を散々探し回った。
「カノン。どこいったの?」
何度も呼びかけた。
「カノン。帰ってらっしゃい。おやつがあるわよ」
何度も呼んでいると、屋敷の方でも声がした。
「カノン。もういいわよ。先生お帰りになったから」と、ママの声だ。
わたしが玄関に着くとママは買い物帰りの様子で、まだ荷物をポーチに置きっぱなしのままだった。
「先生はワクチンの注射を置いてらしたわよ。ダンのプログラムに動物へのワクチン接種も組み込まれているんですって。あとはダンさんにお任せしますって」
そう話しているときにカノンが玄関に入ってきた。
「カノンったら。あんたってホントに現金よね」そうわたしが言うと、ママはしかめっ面をした。
「カノン?あなたってまだ猫ちゃんに自分の名前を付けてるの?」
わたしはペロッと舌を出した。
「てへ。ばれちゃった?」
「『ばれちゃった』じゃないわよ。違う名前にしなさいってあれほど言ってるのに。ねえ、カノン。確実にあなたよりこの猫ちゃんの方が早くに死んじゃうでしょ?その時に私たちはカノンが死んだって悲しむわけ?自分でもそんなのいやだと思わないの」
「はいはい、わかりました」
「あなたの、はいはいは怪しいわね」
「わかったわよ。ちゃんと別の名前を付けると誓います!」
そんなわたし達のやり取りをよそに、ダンはわたしを椅子に座らせるとカノンの方を見た。
ゆっくりかがみ込みながら左手を差し出すとカノンはその掌に飛び乗った。
その上で丸くなろうとしていたカノンは急に飛び上がり、「フギャ~!」と大きく鳴いた。
いつの間にかダンはもう片方の手に注射器を隠し持っていて、素早く接種したんだ。
今の人間用の注射器はまったく痛みがないのだけれど、動物用はまだまだ痛い物らしい。
カノンは猛スピードで部屋の隅の梯子段をかけ上がり、ロフトに作られた自分のおに閉じこもってしまった。
「やれやれ、これで次のワクチン接種の時期にはダンも警戒されるでしょうね」
そう言いながらママは荷物を片付け始めた。

その日の午後、わたしは家庭教師の授業も上の空だった。
今朝、わたしの携帯に、けがをする前、学校に行ってた頃のクラスメートのルカからメールが入っていたんだ。
「秘密のプレゼントがある。5時にミモザ公園へ来てくれない?」
ルカはおとなしい男の子で、学校ではよく遊んだけれど、行かなくなってからは一度も会ったことはない。
家までやってきて話し相手になってくれるほど積極的な子じゃなかった。
普通なら放っておくんだけれど、ルカはけっこうイケメンの原石だったし、「秘密の」というのが気になって出かけてみようと思った。

ダンにお姫様抱っこされてゆらゆら揺られながら公園に続く気持ちのいい道を歩いていた。
青空に浮かぶ白い雲と、あたりの木々の緑色が溶け込んでいるみたいなさわやかな風。
うっとりとしていると勉強の疲れか、すこし眠ってしまった。

ミモザ公園はその名前の通りミモザの木が多い。
ミモザが花開く2月ごろには公園中が黄色に染まるのだけれど、今は鮮やかな緑にあふれていた。
ダンはわたしを抱っこしたままで一本のミモザの大木の下で止まった。
ダンがその木に少しもたれかかると、木が揺れて頭の上で葉擦れの音がざわざわ響いた。
時間はちょうど5時になった。
ルカは来ない。
もう一度メールを見直したけれど、時間に間違いはない。
日にちは指定してないのだからメールを送信した今日だということだと思うし。
その時、なんでルカがわたしのメアドを知ってるのかと思った。
クラスの女子に聞いたんだと思っていたんだけど、内気なあの子がそんなことするのかなと、ふと疑問に思ってしまった。
20分ほど待ったけれどルカは来ない。
ミモザ公園は薄暗くなってきていた。
気温もだいぶ下がって来たけれどダンの体温の(ダンの体の表面に内蔵されたフィルムヒーターだけど)おかげで寒くはなかった。
「ダン、もう帰りましょうか?」
そう私が言った時、公園の奥から一匹の黒い犬が走って来るのが見えた。
そしてまた別の犬がもう一匹遠くからやっぱりこっちへ向かって走って来る。
体中真っ黒の大きな犬だ。
どちらもまるでそっくりで見分けがつかない。
また別の方から三匹目の犬が姿を見せた。
三匹は近くまで走ってくると私たちを取り囲むようにダンの足元で止まった。
すっかり暗くなった公園で、ぼうと目を光らせている犬たちはまるで悪魔の化身のようにも思えた。
ダンはその犬たちを無視して歩き出そうとした。
その瞬間一匹の犬はダンの足にとびかかり噛みついた。
すると、はいていたズボンがブスブスと煙を出した。
ダンはもう片方の足で犬をけ飛ばした。
地面にたたきつけられても、犬は鳴き声ひとつあげることもなく、起き上がった。
ロボット?
そうロボットに違いない。
ダンの足の表面には溶接の痕のように金属が溶けた小さなかたまりが出来ていた。
今度は三匹が同時にダンの足にとびかかった。
噛みつくとバチバチと火花が出て、嫌な金属の焼けるにおいがした。
ダンの特殊合金の足がいつまで耐えてくれるのか、心配になりだした。
ダンはわたしを両手で抱えているので両手が自由にならないので犬たちを十分に攻撃が出来ない。
「ダン!わたしを下して」
そう言うとダンは犬に噛みつかれたままで移動して私をベンチに座らせた。
ロボットなら絶対に人間を襲うことはないはずだ。
ロボット工学三原則が、今どんなところで作られるロボットにも適用されている。
だけど、ロボットがロボットを襲わせる機能は組み込める。
ダンにしてもそうだった。
ダンが足から犬を引きはがし地面や木に何度も叩き付けるうちに犬は一匹、また一匹と動かなくなっていった。
その時私が座っていたベンチの後ろから数人分の腕が伸び、わたしの口をふさぎ、体を抱え上げたんだ。
ダンは後ろ向きでわたしを見ていなかった。
目の前が真っ暗になった。
何か布袋のようなものをかぶせられたらしい。
そして車の座席に押し込められたようで、車はタイヤを軋ませて急発進をした。
しばらく車は走った。
ポケットの中から携帯を取り上げられた。
気配で窓から放り投げられたのが分かった。
何人か人が乗っているはずだけれど誰も一言もしゃべらなかった。
わたしは闇の中で恐怖に震えながらでもダンを信じていたので、どこか安心していた。
きっときっと助けに来てくれると。

車が急にスピードを落とした。
タイヤがものすごい音を出している。
車のドアが開いて男たちがバラバラと出ていくのが分かった。
わたしは自分で、頭にかぶせられていた布袋を外してリアウインドウから後ろを見るとダンがいた。
この車のバンパーをつかんで引き留めていたんだ。
後輪が持ち上がって前輪だけが走り続けようと回転していたけれど、音と煙が出るだけで全然進んでいない。
最後まで残っていた運転手も諦めてエンジンを切って逃げ出した。
車をそっと下すとダンはその男へとダッシュした。
そして、傷つけないようにやさしく確保した時に、警察のパトカーが何台もやってくるのが見えた。
降りて来た刑事らしい人はとてもハンサムだった。
「大丈夫ですか?」
というその声もすてきだった。
刑事さんに手を取られ、抱えられながらわたしはドキドキしていた。
きっと顔が赤くなっているだろうと思うともっと恥ずかしくなった。
「奴らは4人組だったみたいですが、一人は私たちが、もう一人はあなたのロボットが捕まえました。残りの奴らも捕まえます。時間の問題ですよ」
わたしはダンを見た。
ズボンはズタズタで足の外装ははがれ、あちこち骨格や配線がむき出しになっていた。
男を警官に引き渡して、近づいてくるダンは少しびっこをひいている。
わたしはダンに抱っこをしてもらいながら反省していた。
さっき一瞬、ダンとあの刑事さんを比べて、『どっちがいいかな』なんて考えていたことを。
わたしのためにこんなみすぼらしくなってしまったダン。
「すぐに直してもらうからね、ダン」
そう言うとわたしの方に顔を向けて、かすかにうなずいた。
小型モーターのかすかな響きが心地よかった。

三日ほど後にあの刑事さんが屋敷にやって来た。
テーブルを囲んで座って、パパとママも一緒に話を聞いている。
あいつらはみんな捕まったらしい。
実行犯以外に3人がいて全員で7人だったそうだ。
新手の、いろんなロボットを使った犯罪集団だということで、初仕事がわたしの誘拐だったらしい。
アジトからは他にも多数の手造りのロボットが押収されたという。
手造りと言っても頭脳になるロボット用AIは市販のものを使うしかない。
それにはすべてロボット工学三原則が組み込まれているので、殺人ロボットまでは作ることは出来ない。

ダンは修理に出されているので今日は久しぶりに車いすだった。
猫のカノンがそんなわたしのひざに飛び乗った。
知らない人がいるので怖がっているんだ。
「大丈夫だよ、カノン。この刑事さんは優しいからね」
そう頭をなでながら言うとママが反応した。
「あなたねえ、違う名前を付けなさいって言ったでしょ。あなたが付けないんなら私が考えてあげましょうか?」
「いいよいいよ、自分で考えるってば」
そう言いながらわたしは心の中で舌を出していた。
カノン、お前はカノンだよ。
猫のカノン。

わたしは人間のカノン。





おわり




「わたしとダン」シリーズの2話目です。
2話目と言うか、ごく短いエピソードはツイッター小説で毎日の様に書いていたんですよね。
1話目の「わたしのロボットたち」はツイッター小説が元になっていますが、この作品はオリジナルです。

ところで「twnovelお題ったー」と言う物があります。
これは自分の名前を検索窓に入れて、「診断する」ボタンを押すと、お題が三つ出て、それに沿ってツイッター小説を書くと言うものです。
診断メーカーの変わり種と言う感じです。
例えば今、僕の名前を入れてやってみますね。

海野久実は『黎明』と『愛』、登場人物が『守る』というお題でツイノベを書いてみて下さい。

となるわけですね。
このお題を踏まえた上で、ツイッター小説を書くわけです。
このお題は日替わりなので、その日のうちは何度やっても同じお題が出ます。
名前を変えてやると、もちろん違うお題。

これを毎日やってらっしゃる純桜さんと言う方がいまして、それに乗っかって、僕も同じお題で毎日書いていました。
ところが先日の体調不良で、出来なかったのをいい機会に三日分のお題を全部突っ込んで書いてやろうじゃないのと思いついた結果がこの作品です。
そのお題と言うのが。

『メール』と『城』 主人公が『痛がる』
『楽観』と『選択』主人公が『誓う』
『化身』と『遠く』 主人公が『耐える』

なわけでして、このお話にはそれが全部入っています。
これだけお題があれば、書き始める時にはストーリーは全く無くて、お題に導かれるままにストーリーが出来て行ったような気がします。

ところで、この小説の主人公は12歳前後の少女をイメージしていまして、その少女の一人称ですからあまり難解な言葉と言うのは使いにくいわけですね。
そんな時は易しい言葉に直したりはしています。
作中に出て来る九つのお題に対応した部分は色を着けています。

  痛がる⇒痛い
  楽観⇒安心していた
  選択⇒どっちがいいかな

作中ではそんな感じで言い代えていますよ。
「twnovelお題ったー」に、どうぞ皆さんも挑戦してみてください。

画像は三枚の写真を合成して作っています。
ちなみに猫の種類はエジプト原産の「アビシニアン」と言います。

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by marinegumi | 2013-03-11 20:40 | 短編小説(新作) | Comments(2)

故郷の名前 (14枚)

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私は列車に揺られながら、後にして来た暮らしを思い起していた。
それなりに希望を持ってやって来た都会。決して嫌いではなかった仕事。恋人までにはなれなかったけれどガールフレンドもいた。
あのまま、そんなに面白くも辛くもない生活が続いていれば、もっと生きがいも希望もある暮らしに変わって行くだろうという予感は強くあったのだけれど。

列車の窓の外の景色が灰色の都会のそれに、次第に緑がちらほら見え始めた。
そしてさらに列車は走り続け、緑の勢力が増し、青空の広く見える風景に変わっていた。

そんな、ありふれてはいたけれど、大切な物になりかけていた生活をあきらめなくてはならなくなったのはちょっとしたボヤが原因だった。
休日で、私が遅くまで寝ていたある朝に、小さなマンションの隣の部屋で火事騒ぎがあった。
その部屋の住人は起きていたのですぐに逃げ出したものの私だけが何も知らず眠っていた。
新建材の煙が私の部屋にまで充満しても、眠り続けていて、そのまま大量の煙を吸い込み、意識不明に陥ってしまったと、そう言う事らしかった。
ひどい頭痛を感じながら気がついたのは病院のベッドの上だったのだ。
しばらくして退院をしたものの、後遺症が残り、慢性的な頭痛と、記憶力の低下に悩まされた。
これまで通り勤めていた会社に一度復帰をしたけれど、仕事の能率が悪く、毎日のようにミスを犯した。
上役から退職を勧められた時には、なかばほっとしている自分がいた。このままでは重大な取り返しのつかないミスをいつかは犯すだろう予感があったのだ。

列車の外の景色はきれいだった。ますます緑が増え、色も鮮やかだった。天気も良く気持ちのいいはずの眺めだったけれど、それを見ている私の心は慢性的な憂鬱に支配されていた。
世界は何か薄いベールにでも包まれたように現実感がなく、慣れてしまっているはずのわずかな頭痛が、そんな車窓の景色を楽しむ事を妨げていた。
そして私は眠りに落ちた。
昼間でも突然に襲ってくるようになった眠りだった。

目を覚ますと見覚えのある駅のホームに列車は停まっていた。あわてて荷物を手に持ち通路を走り、降りるとすぐに列車は発車した。
改札口には駅員の姿はなかった。切符を回収するトレイが置いてあり、そこに私の切符を入れると駅舎の外に出た。
駅舎の建物を見ると、そこにあるはずの駅名表示の看板がなかった。私はふと不安になる。ここは本当に私の故郷なんだろうかと。
記憶をたどってみる。あの火事以来頼りなくなってしまったおぼろげな記憶。
まだ両親が健在で、兄夫婦が同居しているはずの私の実家がある場所を思い出そうとした。そしてその事にひどく自信がない事に気がついた。
実家の玄関を出て、左に六軒目に幼馴染の京子ちゃんがいる。一度嫁いだものの、帰って来ていると聞いたはずだ。
いや、ちがう。そこは子供の頃によく行った駄菓子屋があった場所だ。
京子ちゃんの家は…
考えれば考えるほど記憶に自信が持てなくなっていた。

しばらく思い出せないまま、その田舎町を歩いてみた。自分の住んでいた場所の名前や番地は住所録に書いてあったし、覚えてもいたけれど、町のどこにも所番地の表示が見つからないのだ。
人に聞いてみる事にした。
何の看板も上がっていない食料品や日用品を売っている小さな店先にいたおばあさんに聞いた。
「すみません。ここは夢凪(ゆめなぎ)町ですよね」
おばあさんはゆっくり振り返り「なんだって?」と笑顔で聞き返した。
「ここは夢凪町だと思うんですが?」
「ここは夢凪町なのかい?」
と、また聞き返される。
「そうだと思って列車を降りてしまったものですから」
「そうだよ。ここは夢凪町だよ」
私はそれを聞いて安心した。私の実家は夢凪町の隣町、虹彩町にあるのだ。
そうとわかれば後はタクシーに乗って、運んでもらうのが一番確実だと思って、駅まで引き返した。駅前に一台のタクシーが止まっていたのを思い出したからだ。
そのタクシーはまだそこにあった。
眠っていた運転手を窓をたたいて起こし、座席に座った時にまた急な眠気がやって来た。
「運転手さん、虹彩町に行ってください。番地はここに書いています」と運転手に紙切れを渡した。
「虹彩町って?」と運転手は聞き返した。
「いやだなー、この夢凪町の隣町じゃないですか」
「あー、そうか。新米なもんで」
タクシーが動き出した。駅前を通る時に駅舎の駅名の看板を見つけた。見落としていたのだろう。
その遠ざかる「夢凪駅」の看板を見ながら、ストンと眠りに落ちた。

「お客さん、着きましたよ」
運転手の声で目を覚ました。見覚えのあるようなないような町角だった。
時間はすでに夕暮が近いらしく影が多くなっていて、通りは少し霧のようなものでかすんでいた。
「ここが本当に虹彩町なんですか?」
私がそう聞くと、運転手は町名が書かれた電柱のプレートを指差した。
「虹彩町三番地27」
それは私が持っている住所録を書き写したさっき運転手に渡した番地に間違いはなかった。
タクシー代を払おうとして、代金が思ったよりずいぶん高くて驚いた。夢凪駅からはせいぜい20分ぐらいのはずだったのだ。
車から降りても、どちらへ歩けば実家があるのか判らず、歩き出せなかった。虹彩町の家々は次第に濃くなって来た霧にかすんでいて、少し離れるともうシルエットになってしまっていた。
いつまでも立ちすくんでいるわけにもいかずとりあえず、その時体が向いていた方へ歩き出した。そして初めに出会った人に聞いた。
「この辺に影崎と言う家がなかったでしょうか?」
「カゲザキさん?」と、その小柄なおじさんは首をひねった。
「影崎俊夫と言います。番地はこのへんなんですけれど」
「聞いた事がないなー」
「星角という洋服屋さんの斜め前だったんですが」
「洋服屋さんならそこだよ」
とおじさんが指をさす。霧がすうーっと引いて行くとその向こうの建物の看板が見えた。「星角洋装店」
「あ、ありがとうございます」と、私がお礼を言った時にはそのおじさんは霧の中に影だけ見え、それもすぐに消えてしまった。
星角洋装店の真新しい看板を見ながら通り過ぎ、私の実家と思われる家の前に立った。
近づくにつれてかすんでいた家の表札の文字が読めるようになった。
「影崎俊夫」
父の名前だった。確かに父の名前ではあったが、家の様子が記憶とは違っていたのだ。家を改築でもしたのかと思ったが、それにしてはずいぶん古そうな外壁が焼き板の日本家屋だった。
私の実家は外壁がモルタルの安普請ではあるがもう少し新しい建物だったような気がした。ふとまた記憶が揺らいで不安になる。
いや、ちゃんと表札には父の名前が書いてある。これが我が家だったのかもしれない。きっとそうだったんだ。そう思い込もうとした。
郵便受けのそばのチャイムのボタンを押した。
家の中からかすかにメロディーが聞こえ、それとともに人の気配がして引き戸が開いた。
顔を出したのは女の人だった。
「お…おふくろ?」
そうは言ったものの、その人の顔に見覚えがない事に困惑していた。
「おふく…影崎正代だよね?」
そう聞いたとたんにその女の人は笑顔になり「おかえりなさい!」と言いながら私の手を引っ張った。
間違いなくおふくろだった。なぜさっきは見覚えがない気がしたのだろう?これも後遺症なんだろうか?
背中を押されるようにして座敷に入ると、そこには父親が座っていた。
「おう。ようやく帰って来たか?まあ、まだ早いが風呂でも沸かすから入ればいい」
「只今…」
私はそう言いながら戸惑っていた。座敷から見える食堂にいる人物に見覚えがなかったのだ。
男性と女性と、男の子が一人。
三人とも黙ってこっちを見ていた。
「あ、兄貴だよね」一瞬名前が出て来なかった。
「影崎伸治?」
兄は笑顔になって「よう」と、手を挙げた。
「姉さん。敏子さんだね」兄嫁の名前を思い出すのにさっきより時間がかかった。
兄嫁は男の子の背中を押して言った。
「おじさんよ、何年ぶりかしら?」
男の子の顔は…
顔がなかった。いわゆるのっぺらぼう状態だったのだ。
そう言えば兄も、兄嫁も、顔に見覚えがなかっただけではなく、名前を口にするまではのっぺらぼうだったような気がした。
「けんちゃんだったね」必死に兄の子供の名前を思い出した。
「健輔くんだ!」
そう言った途端に男の子の顔は見覚えのある健輔の顔になった。そして笑顔で私の方に走って来た。
「ねえ、ゲームやらない?」
私は違和感を覚えた。そして居ても立ってもおられない胸騒ぎ。
「ちょっと近所を散歩してきます」と言い残して、走るように家を出た。

隣の家の前に立った。この家は「横水」と言う名前だったはずだ。
相変わらず霧が立ち込めていた。表札を見ようと近づいたが、何も書かれていない真新しい木の板がかかっているだけだった。
「横水伸一」
と、私が声に出して言うと、表札にその名前が浮かび上がった。
私の体が震え出すのがわかった。
通りを全速力で走った。
六軒目の家の前に止まる。表札にはやはりなにも書かれていなかった。
震える手でインターホンを押すと、「はーい。今出ます」と言う聞き覚えのない声。
ドアが開き出て来たのはやはり顔のない女の人だった。
「雨沢京子」と、私が口に出せばその人は京子ちゃんなのだろう。

私は走った。そしてキーがついたままの車を見つけると、エンジンをかけ、猛スピードで走らせた。
鉄道の踏切があったので線路沿いの道を選んだ。
やがて駅が見えてくる頃には霧はすっかり晴れていて、不思議な事に空はまだまだ明るかった。
駅前に車を乗り捨てると、最初にやって来た列車に乗った。
この駅にはちゃんと名前があった。
私の故郷の最寄り駅「夢凪駅」の五つ手前の駅だった。

いまさっき、私が迷い込んだ町は一体何だったのだろう?名前のない駅。名前のない町。私が名前を口にすると、その名前の駅になる。その口にした名前がその町の名前になる。
私の家族にしても…

駅を四つ数え、いよいよ次が私の故郷に帰るために降りる「夢凪駅」だ。本物の「夢凪駅」
ふと不安がよぎった。
あの名前のない町の名前のない駅、そして名前のなかった故郷の名前のなかった家族に私が名前を与えてしまった。そしてその為にあの街が現実に存在するようになったとしたら、はたして本当の私の故郷「虹彩町」は、まだそこにあるのだろうか?
不確実に存在していた町が名前を得る事によって、存在し始めてしまった今、まだそこにあるのだろうか?

その時「ギギギギギィー」という音と共に列車に急ブレーキがかかり、間もなく停車してしまった。
私は窓から顔を出し、列車の進行方向を見た。
車掌のアナウンスが何と告げるのかを、震えながら待っていた。



おわり



明日からちょっと忙しくなるので、早く寝ようと思いながら書かずにいられませんでした。
例によって書きあげてろくに校正もしないままアップしてますので、誤字脱字、おかしな文章ご容赦ください。
おいおいに直します。
まあ、このブログの作品はほとんどが未完成だと思ってもらってもいいです。
発表後もちょこちょこ手直しが出来るのがブログのいいところですね。


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by marinegumi | 2012-05-24 01:35 | 短編小説(新作) | Comments(6)

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「由紀、食事中にピコピコうるさいんだよ」
家族4人で夕食のテーブルを囲んでいる時に、お父さんが言い出した。私はケータイで友達にメールをしていたのだ。
「そうですよ、お父さん。食事中にメールするのは行儀が悪いでしょ。お父さんからも言ってやってください」
と、お母さんも言う。
「その音はどうにかならないのか?テレビを見るのに気が散ってしょうがない」
「そうなの。じゃあ音が出ないようにしとけばいいのね」と私。
「お父さん!そこじゃないでしょ?私はメールすること自体がお行儀悪いと言ってるんですから」
そうお母さんが言うと、お父さんはNHKのニュースをやっているテレビから目を離さずに答えた。
「え?いんじゃない。俺だってテレビ見てるし」
「それじゃ音が出ないように設定するね」
わたしは、キーのプッシュ音を「なし」に設定してメールの続きを打ち始め、お母さんは不満そうに鼻でため息をついた。
弟の和也はそんなわたしたちのやり取りを面白そうににこにこしながら見ている。
「ご、め、ん、そ、ん、な、こ、と、な、い、か、ら…」
気が付くと、和也が横から画面をのぞきこんで、メールを声に出して読んでいた。
「何やってんのよあんた!」
私は軽く、肘で和也のあごを下からこずいた。
「痛いよ!おねえちゃん」
「まったくもう…」
「あのメールさー、カレシに送るんじゃね?」
「違うわよ!」
私はケータイをテーブルの下にして画面を見ないで打ち続けた。中学生になってケータイを買ってもらい、メールを打ち始めてもう三年。スピードはめちゃ遅くなるけども、ケータイでブラインドタッチが出来るようになっていた。ただ、正しく変換されているかどうかは画面で確かめないといけないけれど、ひらがなのままなら確実に打てるようになっていた。

ある日曜日の事だった。
お父さんはゴルフ。お母さんは和也の小学校で何やら行事があるようで一緒に出かけていて私は一人だった。
私は二階の自分の部屋で、机の上に足を置いて椅子に座っていた。一人の解放感で、そんな思いっきり行儀の悪い格好で「三毛猫ホームズ」を読んでいた。
のどが渇き、コーヒーでも淹れに台所へ降りようと立ち上がった時、窓から見下ろすお隣の吉川さんちの庭に人がいるのが見えた。ジーンズに、上は黒っぽいブルゾンを着てニット帽をかぶり、サングラスをかけ口ひげをはやした男の人だ。吉川さんの家族ではない。きょろきょろとあたりを見回して、何となく様子がおかしかった。
そして、その人が上を見上げた時、私と目が合った。その男の人は無表情のまま私を見て数秒かたまり、慌てる様子も特に見せずに歩いて出て行ってしまった。
いったい誰だったんだろう。コソ泥みたいな感じではなく何か堂々としていた。

本を読むのにも飽いて、二時ごろに一階に降りた。
一人きりの遅い昼食をとり、そのままダイニングでテレビを見続けた。
午後四時を過ぎる頃、お母さんが小学校から帰って来るなり不安そうな表情で言った。
「お隣の吉川さん、何かあったのかしら?今、家の前にパトカーが止まってたわ」
和也を連れて入って来て「家から出ちゃダメよ」と二人に言うと、外へ出て行った。お隣の方が、何やら騒がしい。

しばらくして入って来たお母さんのか顔は青ざめていた。
「吉川さんのご主人が亡くなってらしたんですって」
そして、お母さんは私の耳元に、和也に聞こえないように言った。
「殺人事件らしいって」
私は、自分の部屋から見下ろしたあの男の事を思い出していた。
吉川さんちは塀が高く、道路からは庭に人がいても見えない。その人を見ているのはたぶん私だけと言う事だ。きっと警察が家にも聞きにくるに違いない。そうすると私は目撃者として、いろいろ聞かれるだろうと思った。
その男の顔や服装を思い返していた。吉川さんには悪いけれど、なにか探偵小説の登場人物にでもなった気がして、少しワクワクしている自分がいたのだ。

吉川さんの家の前にはおなじみの立ち入り禁止の黄色いテープが張られ、警察官や刑事らしい人、鑑識?みたいな人があわただしく出入りするのを私は時々自分の部屋から見下ろしていた。
若い刑事らしい人が、あの男の人が立っていた庭から私の方を見上げ、目が合ったりもした。

死体も運び出され、一応の調べが終わったらしいその日の夜遅く、目が合った刑事さんともう一人の歳をとった刑事さんが家に訪ねてきた。
「もうご存じとは思いますが、お隣のご主人がなくなりました。どうも強盗らしいのですが、何か気がついた事があればお聞きしたいのです」
歳を取った方の刑事さんがそう言うと、反対にお父さんが聞いた。
「強盗が入ったのは何時ごろなんですか?」
「吉川さんの家族の方がご主人を残して家を出たのが午前10時過ぎ。帰って来て死体を発見したのが午後3時半ごろなんですが、これはご主人の死亡推定時刻がわかればもっと狭められると思いますね」
「その時間帯はわたしたちは出かけていましたね」
と、お父さんは言いながらわたしの方を見た。
「おい由紀、お前は家にいたんだったよな」
そこでわたしは二階の窓から見た、吉川さんちの庭にいた男の話をした。
すると二人の刑事さんは身を乗り出して私の話に聞き入った。
「それは何時頃の事ですか?」
それを聞かれるだろうと思って、前もって男の服装や人相と一緒にそれも思い出しておいた事を言った。
本を読んでいる時に時計を見て、11時40分だったのが映像として記憶に残っていた。
それから少し本を読んで、コーヒーでも飲もうと思ったからお昼に5分ぐらい前のはずだ。
それを刑事さんは手帳にメモをした。
「さっきあなたと目が合いましたね。二階にいらしたでしょ?」
と、若い方の刑事さんが初めて口をきいた。結構イケメンだった。
「お隣の庭からお見かけした時はお嬢さん、小学生かと思ったんですが、こうやって近くで見ると、中学…1年生ぐらいですか?」
わたしはちょっとムッとして「高校1年です!」と言って若い刑事さんを睨んだ。
「この子はほんと、クラスで一番背が低いんですよね」
お父さんは笑いをこらえながら言った。
「そうですか、失礼しました。ただでさえ若く見えるのに、お隣の庭から離れて見ると、さらに幼く見えるもんですね。いやいや」
なにが「いやいや」なんだよーと思いながらお母さんを見るとやっぱり笑いをこらえていた。
「ここのお家はあれですね。ずいぶん窓が大きくとってある」
歳をとった方の刑事さんがそう言った。何を関係ない事を言うんだろうと、みんなが「?」となった。
「比較の問題ですね。窓が大きいので彼女が小さく見えちゃったと言う事でしょう」
そう言いながら若い刑事さんに目配せをした。
「それではこの辺で失礼します。なかなか有力な情報をありがとうございました。またもっと詳しい事をお聞きする必要が出てくるかもしれませんが、その時はよろしく」

それから何回か刑事さんたちはやって来て庭にいた男の詳しい人相や服装。背丈などを聞いた。顔はニット帽とサングラスで隠れていたし、ヒゲも恐らくつけヒゲかも知れなくて、あまり参考にならないんじゃないかとわたしは思った。


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1週間が過ぎた。
わたしは浮き浮きしていた。だって3年間使い続けた携帯をスマートフォンに買い替える許しが出たからだった。手続きの書類をお母さんに書いてもらい、近くのケータイショップに歩いて向かっている途中だった。
あるスーパーの駐車場横を歩いている時に1台の車がその駐車場に入って来た。車は、入ってすぐの駐車スペースに止まると一人の男の人がドアを開けて降りて来た。どうも足が不自由らしく車体につかまりながら後ろへ回ろうとしていた。車の後ろには電動車椅子が乗っているのが見えた。さらに車には車椅子の絵のステッカーが貼ってあった。
どうして身体障害者用の駐車場に止めないのか、何でこんなにスーパーの入り口から遠いところに止めるんだろうと、その時は頭の隅でちらっと思っただけだった。そもそも一番店の入り口から遠いところなのだ。そのため、ほとんど車は停まっていない。
その時、車止めにつまづき、男の人はその場に転んでしまった。
「ううう…」
と、うなりながら男の人は座り込んでいたが苦しそうに顔を上げると、わたしと目が合ってしまった。
「だいじょうぶですか?」
あたりを見回しても誰もいないので仕方なく声をかけた。
「ちょっと手を貸してください」
男の人は優しそうな声をしていた。年齢は50前後かなと思った。特に見覚えのある人ではない。
体を支えようと腕を抱えると、案外容易に男の人は立ち上がった。運転席まで手を添えて座らせてあげた。
「いやー、どうもありがとう。ちょっと悪い足をさらに痛めてしまったなこりゃ。これでは家に帰っても、車いすに乗れないな」
と、男の人は困った顔をした。
車は改造されていて、足を使わずに運転できる身体障害者用だった。
「お譲ちゃん、申し訳ないがわたしの家まで一緒に乗って行ってもらえませんか?家族の者が今いないので、家の駐車場で車椅子に乗る事さえ出来たら、あとは一人で出来るんですが」
少し考えてわたしは言った。
「いいですよ」

車が走り出すと男の人はたばこを吸い出した。窓は運転席側を開けていたので煙は車外へと流れてしまう。わたしはたばこの匂いが嫌いだったので、安心した。
「10分ほどで着くからね」
と男の人は言った。そしていろいろ私の事を聞いた。
「高校1年生なんだ?ずいぶんかわいらしい高校生ですねー、いやいや」と、誰かと同じような事を言う。
わたしは質問に答えながら男の人が運転する様子を興味深く見ていた。手だけで運転出来るその車が珍しかったからだ。
車はたっぷり20分ほど走り、気が付くと細い道に入り込み、あたりには木しか見えなかった。
「ごめん、ちょっと足が痛みだした」
男の人はそう言うと車を止めた。
車内はしんと静まった。男の人は窓を閉じるとため息をつく。
そしてたばこを大きく吸い込むと、ゆっくりと煙をはきだした。
たばこの煙は男の人の顔のまわりを漂う。それはまるでヒゲのような形で男の人の口のあたりでしばらくとどまった。
その時心臓がドキンと大きく打った。
すぐにその理由が解った。ヒゲだ。
この男の人にひげをつけると、あの吉川さんの庭にいたあの男とイメージが重なるのだ。
この人があの日の強盗?
最初はそんな事はあり得ないと、否定したい気持ちが大きかったけれど、だんだんにしぼんでしまった。
そしてすぐに確信になった。

どうしよう?あたりには誰もいない。わたしはドアの内側の取っ手をそっと引っ張ってみた。堅く、動かなかった。
いや、わたしが逃げ出さないようにロックしたと言うわけでもないだろう。ドアを閉じると自動でロックされるのかもしれない。まだわたしはこの男の人があの男ではないと信じたがっていた。
「まだ痛みますか?」
とわたしは精いっぱいの笑顔で聞いた。
「うーん、そうだな」
男は車を止めてから急に無口になっていた。
ひょっとしてあの日、吉川さんの庭にいた時、わたしと目が合ったあの時に、わたしをまだ小学生ぐらいだと思ったのかもしれない。あの若い刑事さんと同じように。
小学生だから大した証言も出来ないだろうとそのまま見逃したけれど、心配になった男はわたしを見張っていたのかもしれない。
どんどん想像は膨らんで行った。
そして身体障害者のふりをして、私を車に乗せ、高校生だと言う事がわかった。さて、どうしたものかと男は今、考えているのではないだろうか。
このまま解放する方がいいのか、殺した方がいいのか。
わたしは背筋に冷たい物が走るのを感じた。
下手に動けないと思った。車から逃げ出そうとすればたちまちつかまる。ここはせいぜい馬鹿なふりをして…
そして思いついた。携帯だ。まだスマートフォンに機種変していないスライド式の携帯電話だ。スマートフォンではブラインドタッチは出来ない!
わたしはどうでもいい話をしながら男に気付かれないように、ポケットに手を入れ、スライドさせた。そして、もしもこれが二つ折りの携帯だったら、ポケットの中で開くことは出来ないのに気がついた。スライド式でよかった!
メールボタンを押す。あの日から、操作音が出ないままにしていて、戻すのを忘れていた。それが幸いだった。
頭の中で画面を想像しながら手探りで、お母さんのメールアドレスを選ぶ。そして新規作成。

ゆっくり間違えないように打って行った。画面を見る事が出来ないので一つ間違うともうやり直しは出来ない。
「たすけて ごうとうはんにん くるまのなか かみかわばしからにひゃくめとるをひだり はやしのなか」
そして送信。
わたしは祈る気持ちで待っていた。たわいもない話をしながら。せいぜい「こいつは馬鹿か」と思わせる事が出来ないかと、支離滅裂な話を作りながら。
わたしはニット帽にサングラスと付けヒゲの男しか見ていない。それだけではとても犯人を特定出来るはずはないと思う。だけど、どうだろう。あの日、吉川さんのご主人を殺した男が争った時に、ニット帽やサングラスなどが外れてしまっていたとしたら。そうでなくても素顔のまま庭に出て来て、ニット帽とサングラスを身につけて、逃げようとした時にわたしと目が合ったとしたら。もっと前から見られていたのかもしれないと男が思っていたとしたら。
それを警察で証言されるのはまずいはずだ。
後からわかった事だが、それはその通りだったのだ。

せいぜい馬鹿話を続け、ネタ切れになった頃に林の向こうの道にパトカーが見えた。


そう言うわけでスマートフォンに取り換えそびれ、わたしの携帯はまだスライド式だ。
しばらくはこのまま使い続けようと思っている。



おわり



最近になく、長い物を書いてしまいました。
ミステリーっぽいのを書いてみたくて書きかけてほったらかしだった物を仕上げたんですね。
仕上げと言うには程遠いかもしれませんが、まあ、習作と言う感じでしょうか?



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by marinegumi | 2012-04-25 20:37 | 短編小説(新作) | Comments(4)

みなしご (18枚)

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ぼくはいったい誰なんだろう?
少年はその疑問を、物心がついた時からずっと持ち続けていたように思った。

その日もまたいつものように朝を迎えた。
少年はシーツを足元に折りたたみ、きしむベッドから木の床に裸足で降り、小さな部屋を横切り、カーテンを引き開け、観音開きの木製の窓をいっぱいに開け放った。
朝の光がたっぷりと降り注いだ。

ぼくは一体誰なんだろう?
ぼくはどこで生まれたんだろう?
ぼくはどうしてこんな所にいるんだろう?
ぼくはこれからどうなるんだろう?
ぼくは…
  ぼくは…
    ぼくは…

そんな疑問を少年は問いかけた。
誰にともなく、どこへともなく、あるいは、自分に向けて。
開け放った窓からは果てしなく続く街の家並を見る事が出来た。
少年の住む部屋は多層階の木造建築の、かなり上階に位置した一部屋で、ぐるりと丸く円形の部屋になっていた。
この建物自体の外壁もまた円を描いていた。
街には他にも高い建物が林立していた。
赤いとんがり屋根のレンガ造りの塔のような高い建物が多く、たぶん少年の部屋があるこの建物もそんなものの一つだと思われた。

少年には幼い頃の記憶がなかった。
生れた故郷の記憶も、母の記憶さえも全く欠如していた。
そして少年は自分が住んでいるこの建物がある街、目の前に広がるあの広い街にさえ行った事がなかったのだ。
ふと、遠い記憶の中で、あの街の中にいる自分のイメージが浮かぶ事もあった。
でもそれは頼りなげで、過去の想像の残渣に過ぎないかもしれなかった。
全ては霧の向こうに時々見え隠れするだけのあやふやなものだったのだ。

少年はまた自分以外の人間に出会った事もなかった。
これまでに少年と供に住んでいた人もいなかったし、少年をを訪ねてこの部屋にやって来た人もまたいなかった。
少年は完全に一人ぼっちだったのだ。
恐らく生まれてからずっと。

少年は街を見下ろした。
その街にはたぶんたくさんの人々が住んでいるはずだと思った。
そしてそこには少年の故郷があり、少年の母も住んでいるに違いないと思っていた。
日に日にそれは確信となり、いつかはあの街へと出て行きたいと言う思いが強くなって行くのだった。

少年は窓から離れ、その自分の部屋の隅へと歩いた。
そこにある、部屋に造り付けの戸棚を開くと、1枚の皿の上に食べ物があった。
それには必ず毎日、違う種類の食べ物がのっていた。
棚からそれを取り出すと、小さなテーブルの上に置き、ゆっくりと食べた。
食べ終わると元の戸棚の中に皿を納めておく。
すると次の日には別の食べ物がのせられているのだった。
思いだせる限り以前からそれは続いていたので、その事についてはひと時も疑問に思った事はなかったが、しかしそれも不思議な事ではあった。
でも、今はもっと大きな疑問に少年は心を奪われていたのだ。この建物を出る方法。そして出て行けたとして、そこには何が待っているのだろうか?と。

少年は部屋の隅にある天井へと続く梯子を見上げた。梯子の上は、はね上げ式の扉になっていて、それを持ち上げると、もうひとつの部屋があった。
少年はその自分の部屋の上にある部屋へと行った時の事を思い出していた。
それはもう何年も前になる。
そこは少年の住む部屋とほぼ同じぐらいの大きさの部屋だった。しかし少年の部屋と比べると、空気はじっとりと湿っていて、生暖かく、部屋の壁紙やじゅうたんなども、押すと水分がにじみだすほどだった。当然そこにある木製の家具などはほとんどが腐りかけていたのだった。

その部屋のさらに上にもう一つ小さな部屋があった。
その部屋に入るには、一見壁の一部としか見えないふやけた開きにくくなっている隠し扉を、思い切り蹴飛ばして開かなければならなかった。
開くと細い階段が上へと続き、その先にあった小さなドアを開けると、そこはひどく狭い屋根裏部屋だった。
狭くもあるし、天井が手が届きそうに低く、何よりも暑かった。
少年がその部屋に足を踏み入れた途端、物すごい熱気が彼を襲った。窓の外の日差しが尋常ではなく強かったのだ。
少年はそこへ入るのはあきらめた。

少年は自分の住んでいるこの建物のすべては把握していなかった。
上の階の二部屋は見た。そして足元にある部屋も、一部屋づつ何年もかけて発見して行ったのだ。
階下へと降りる扉は上の部屋と同じようにはね上げ式の扉になっていた。うすい敷物をめくり床の一部にある取っ手を持って持ち上げると扉が開き、梯子が下の部屋へ伸びていた。
少年は慎重に降りて行った。
彼が最初に見た、自分の部屋以外の部屋は頭上の部屋ではなく、ここだったのだ。
そこは、がらんとしていて何もなく、灰色一色の部屋だった。壁も灰色の土壁で、あちこちに穴が開き、崩れかけている所もある。そしてひどく小さかった。屋根裏部屋のあの暑い部屋よりもさらにずっと狭かった。見るべきものもほとんどなかった。
更にこの部屋の下にも更に部屋が続いているのを少年は発見した。それは1年ほど前の事だった。
少年は窓から眺めた感じで、この建物は20階前後の建物ではないかと思っていた。と言う事は、さらに下にも部屋が少なくとも15個はあるに違いないとその時は想像した。

灰色の小さな部屋から下の部屋への入り口は意外なところにあった。部屋の窓は高い位置に左右にあり、片方は外の光が差し込んではいるものの、もう片方は暗闇だった。少年は自分の部屋から椅子を持って降りて来て、その窓を開いて身を乗り出した。するとそこに、ごく狭い階段が下へと降りていたのだ。
窓を抜け、階段へと降りた。その階段を降り切ってしまうとそこには赤茶けたドアが少年を待っていたように半開きになっていた。
ドアを押し開けると、ドアと同じ色をした部屋があった。
その部屋は少年の部屋より少し狭く、壁紙もじゅうたんも、赤系統で統一された部屋だった。窓枠もカーテンも色んな家具さえも。
しかしそこもまた人の住んでいる気配はなかった。
一見華やかに見える赤色はかなり色あせているし、埃も積りほうだいになっている。そして少年の部屋より少し寒かった。
そして、この部屋もまた円形の部屋だったので、他のすべての部屋も恐らく同じ事だろう。

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赤い部屋のもう一つ下の階の部屋まで下りる事が出来たのは数日前の事だった。今までに少年がやって来た事のある部屋はそこまでだった。
その部屋に降りる方法は、赤い部屋を何日もかけて何度も何度も探し方を変え、探し続けてやっと発見したのだ。
結局部屋に置かれている重い木製のカップボードの後ろに扉が隠されていたのだが、少年の力ではなかなかそれは動かなかった。
少年の上の部屋の壊れた家具の棒状の部分を取り外し、それを自然に覚えた、「てこの原理」を利用して何とか動かした。自分が入れるまでに動かした時には汗だくになっていた。
カップボードの後ろになっていたその扉を開くと、かなり長い螺旋階段が暗闇の中に続いているのが目に入った。それを降りながら120段を数えたところで、足元が全く見えなくなった。見上げると開け放してある扉からの明かりが針で開けた穴ほどの光が見えているだけだった。
少年はしばらく立ち止まったものの、更に降りて行く決心をした。
350段までは数えたがその後は数えるのをやめた。
全くの暗闇を手探り、足探りで降りて行くうちに唐突にそれ以上下への段がない少し広いスペースに立っていた。壁側を手で探ると、ドアのノブらしいものが触った。

少年が扉を押し開けて見たその部屋の広さは、少年の想像を超えていた。
部屋の向こう側の壁には何十という窓があり、それがひどく小さく見えたのだが、目を凝らすとかなり大きなものだとわかった。それは遠く離れたところにあったのだ。部屋に足を踏み入れると足がふわりと沈みこんだ。床に敷き詰められたじゅうたんは毛足が長く、少年のくるぶしまで隠れてしまうほどだった。そして天井はと見ると、これもあまりに高すぎるのか、ただぼんやりと色んな明かりがともっているのがわかるだけだった。そしてその部屋もまた誰も住んでいる気配はなかった。
なぜかその部屋は濃い気体に満たされているようだった。その濃密な空気はどこからともなく流れ込んでくる風のためか、絶え間なくゆっくりと渦を巻いていた。窓は外からの光でその場所がわかったが窓以外の壁になっている部分がどういう装飾なのか、どんな家具が置かれているのかさえぼんやりとして定かではなかった。
そしてその部屋はひどく寒かったのだ。
少年はその広さに圧倒され、また寒さにも耐えきれず、その日はそこまでで自分の部屋に戻った。

そして今日。燭台とろうそくを用意して、服を十分に着込んで再びあの広い部屋に降りてみる決心をしていた。
ただただ自分の部屋を出る事もなく過ごした、幼かった頃の少年とは違い、大きく成長していたのだ。
すぐ下の、ごく小さな灰色の荒れ果てた部屋を過ぎ、赤を基調に配色された部屋を過ぎ、長い長い螺旋階段をろうそくの明かりを頼りに降りて行った。
改めてその螺旋階段の長さを思い知らされた。明かりを持っていてさえも不安になって来る。あの日、真っ暗闇の中を降りて行った自分が信じられなかった。恐らく時間の感覚を失っていたのかもしれない。
この螺旋階段分の高さが、あのとてつもなく広い部屋の高さだとすると、案外部屋の数はもっと少ないかもしれなかった。自分が住んでいる部屋の大きさを基準に考える事はもう出来なかったのだ。

大きな木製のドアを開けると、あの日の広い部屋が再び目の前にあった。濃い霧がかかったような部屋の中。足を踏み出すと足がじゅうたんに沈み、落下するのではないかと一瞬ドキッとする。
この部屋から、更に下の部屋へ通じている場所を探すのは不可能ではないだろうかと、少年は不安になった。あまりにも広すぎるのだ。
まるで夢を見ていているようでもあった。霧とも煙ともつかない気体が渦巻く、茫漠とした部屋をどんどん歩いて行った。とりあえず、光が差し込んでいる向こう側の窓まで行ってみようとしたのだ。
窓は想像していた以上に大きかった。少年の背丈の5倍はあるようだった。
ひどく重いその窓を開いてみた。
すると30メートルほど下の方にこの建物の外壁を取り囲むように作られたバルコニーというか、ベランダと言うか、デッキと言えばいいのか、何かそういう物があるのを見る事が出来た。目を凝らすと、それは恐らくこの建物をぐるりと取り巻いているように見えた。
少年は窓に掛けられているカーテンを見て、しばらく考えていたと思うと、それを思い切り引っ張った。
するとカーテンははじの方だけが5~6個コマが外れて垂れさがった。
更に少年はカーテンにぶら下がるようにして、それをカーテンレールからはぎ取ってしまったのだ。
次々に少年はカーテンを外し、布同士を結び付け、長い長いロープを作った。
そして窓を開け、ふたたび遥か下に見えるバルコニーを見下ろした。
少年は建物の外壁をそのロープを使って降りる事を思いついたのだった。

降り始めた最初は手の力だけで体重を支えていたので、すぐに指が痛くなってきた。そしてカーテンのロープを腕に巻きつける事を思いつき、なんとか降り続ける事が出来た。しかし腕も次第にしびれ出し、何度かもう落ちるかもしれないと思いながら、今度はロープを自分の腰に巻きつけながら降りる方法を思いついた。
それで何とか体は楽になった。手のひらを見る余裕が出来たが、それは血だらけになっていた。

建物の外壁にせり出したバルコニーは、やはり建物をぐるりと全周取り巻いていた。いちばん外側には手すりが設けてあった。そこから身を乗り出して下を見ると今までと違い、他の建物が大きく迫って見えた。
少年はそのバルコニーがある上の部屋と負けないぐらい大きな部屋の窓に近づくとカーテンのロープの余った部分を手に何重にも巻きつけ、窓ガラスを思い切りたたき割った。
そこから中に入り込む。
その部屋は意外なほどこの上の部屋と似ていた。それよりは少し小さいようだったけれど、濃密な空気が渦巻いていて、敷物もふわふわで壁の素材も柔らかく手で押すと5センチほどへこみ、すぐに元に戻った。そして上の部屋よりもさらに気温は低かった。
上の部屋への通路はすぐに見つける事が出来た。
その部屋にはドアが60以上あり、それぞれ別のごく小さな部屋へ続いていた。
その中で一つだけ特に大きなドアがあったが、それを開けて見ると、ここにもとてつもなく長い螺旋階段が上に伸びていたのだ。下へ下へと降りて行く時には、その通路は巧妙に隠されていたが、上に行くためのそれはごく普通のドアになっていたのだった。
この部屋の下にもいくつか部屋は隠されているはずだった。しかし、その下の部屋へ行くのに今と同じようにロープを使う事は出来そうもなかった。この階にある張り出したバルコニーの幅が10メートルぐらいはあり、とてもその下へ回り込んで下の階まで降りることは無理に思われたのだ。
今度はどうしてもこの部屋のどこかにある、隠された通路を見つけ出す必要があるようだった。
少年は上の階へ行く螺旋階段を昇りはじめた。自分の部屋へと続く長い長い階段を。

少年は想像した。さらに次の部屋、また次の部屋へと通路を探し当て、いつかは一番下の部屋へとたどり着く日の事を。
そこへ降りる事が出来れば、この奇妙な建物の外に出られるはずだ。そうすると他の建物に住んでいる人と出会う事が出来るに違いないと思っていた。
街は広かった。すぐそばの建物に誰も住んでいなかったとしても、建物は無数に並んでいた。いつかはきっと自分と同じような仲間を見つける事が出来る。そう信じていた。
そう。そしてまた、いつかはきっと自分の生まれた故郷にたどり着けると思った。そして自分を産んでくれた母のもとへもたどり着けるはずだった。

少年が自分の部屋に帰って来た時には、彼は疲れ切っていた。これまでにない大冒険だったのだから無理もなかった。
ベッドに横になると彼はすぐに眠りに落ちた。
そして夢を見た。

漆黒の宇宙にぽっかりと浮かぶ一つの青い星。
無数の星々に囲まれ、ゆったりと自転を続ける孤独な惑星を少年は見ていた。

ボクノヘヤダ

少年はその星を見て、そう呟いていた。

アノホシハボクノコノヘヤナンダ

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おわり




この作品はかなり昔の作品の改稿版です。
改稿された旧作もこのブログにはいくつかアップしていますが、もうめぼしい作品はないと思っていたんですよね。
あー、これがあったかと最近思いだしました。
と言うのも、この作品のストーリー、部屋が積み重なった建物を一部屋一部屋降りてゆくと言うお話…
そう、アニメの「つみきのいえ」がそう言うお話でしたでしょう?
あの作品を見て思い出したのです。
とは言ってもこの僕の作品の方がずっと早く書かれているんですけどね。
「つみきのいえ」の脚本家さんが幼い頃?監督さんがまだ生まれてない頃?
まあ、下の部屋下の部屋へと降りて行くと言うところが連想させるだけで、全然違うお話ですからどうでもいいと言えば、どうでもいいんですけどね。

えーと、それからこの「みなしご」を最後まで読んでもピンとこなかった人のために画像を一枚貼り付けておきますね。

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「つみきのいえ」はすばらしい作品です。どうぞ一度ご覧になってください。
アニメを見て泣いたのは初めてでした。
「フランダースの犬」の最終回を見ても泣かなかった僕が泣いてしまったんですよー
YouTubeで見る→「つみきのいえ」


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by marinegumi | 2012-04-09 20:33 | 短編小説(新作) | Comments(8)

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我が家の愛犬クッキーの散歩は、わたしが中学生になった頃には、ほぼわたしの仕事になっていた。
平日は学校から帰って来てからの夕方に。お休みの日には朝ごはんのあとに出かけると言うのがわたしの習慣だし、クッキーの習慣というわけで、ちょっとでも時間が遅くなると、犬小屋のあいつは催促の鳴き声を上げるんだ。まあ、中学でも今の高校でも、わたしはずっと帰宅部なので、幸か不幸か毎日そのパターンを続けられるというわけだけど。

わたしが決めた散歩のコースの途中には、この町で一番大きな橋の下をくぐる道がある。
わたしの卒業した中学校の横を通り、図書館のある公園を抜けて歩いて行くと自然に道はその橋の下をくぐり、右へ曲ると国道沿いの「道の駅」の駐車場にたどり着く。ここで家を出てからちょうど15分で「30分以上は歩きたくない!」と、かたく決めた散歩の折り返しの場所になっている。ずっと同じ道を選んで来たのは、距離的にちょうどよかったし、この「道の駅」の自販機で、夏ならコーラ、冬ならコーヒーなんかを飲みながら一休み出来るからだった。

それでも、しばらくコースを変えていた事もある。
それはもう3年ぐらい前の事。その頃は、橋の下にはホームレスの人が2~3人暮らしていたんだけど、そのうちの一人が段ボールで作った小屋の中で練炭で暖をとりながら寝ていて一酸化中毒で死ぬという事件があった。それから、なんとなく気味が悪く、しばらくはその場所を通るのを避けていたんだ。
いつもと違う道を歩くのは、なんだか落ち着かなかった。ちょうど往復で30分ぐらいの所に一休みできる場所がある、そんなコースが見つからず、散歩もなんだか気ぜわしかった。

それから数年が過ぎ、あの事件の記憶も薄れ、またその散歩コースを選ぶようになった頃には橋の下のホームレスは気のよさそうな小柄なおじさんが一人だけになっていた。
気はよさそうだけれど、いつも寂しそうな、ちょっとしかめた目をしたホームレスのおじさん。
そのおじさんは散歩している時に顔を合わせると、挨拶を返してくれたり、クッキーに愛想をしてくれたりで、いつの間にか顔見知りになっていた。
これで散歩の道順も、元のコースに戻ってひと安心と言う感じだったんだけれど…。



高校が冬休みに入ってすぐの頃だった。
その日はいつもの時間より30分以上早く目が覚めてそのまま散歩に行くことにした。
その日は急に気温が下がり、ひどく寒かったのでマフラーにニット帽、フェイクファーのイヤーマフに防寒のポンチョという完全装備で、アイポッドを聞きながら出かけた。
橋の下まで来ると、いつもとちょっと様子が違っていた。
あのホームレスのおじさんは、温かい時期はコンクリートの堤防のそばの椅子に腰かけたりしている事が多かった。夏は蚊取り線香を足元で焚き、うちわでパタパタあおぎながら椅子にぐったり体を預けている姿をよく見た。
寒い時期はと言うと、たき火をしてその近くで手をかざしている姿をたまに見かけるぐらいで、あまりそこには居る事はなかったようだ。たぶん「道の駅」の中のお風呂に入ったり、そのロビーとか、ちょっと離れたショッピングセンターの中なんかで暖をとっていたんだと思う。
その日私が通りかかると、壊れかけた折りたたみ式のベッドが組み立てられて、それに布団が敷かれていた。布団はちょうど人が寝ているような格好に膨らんでいたけれど、人が寝ているにしては顔の部分に青いジャージがすっぽりとかけられていて、ただ布団や衣類を積み上げているだけにも見えた。
そして、そのベッドの下には靴がそろえて置かれていた。
その時私は思い出した。あの青いジャージはホームレスのおじさんがよく着ていた物だと。
そこで私は納得した。夏なら風通しがよく涼しい橋の下も、冬は吹きっさらしでひどく寒いんだろう。だからすっぽり頭まで布団をかむり、更にジャージを置いて、隙間から風が入るのを防いでいるんだなと、そう思ったんだ。
今まで、一度もおじさんが寝ているところを見た事がなかったのだけれど、今日はたまたまいつもより散歩の時間が早いので、まだおじさんの起床時間になっていないと言う事だろう。
そのまま通り過ぎ、自販機であったかいココアを飲んだ後、もう一度寝ているおじさんの横を通って家に帰った。



その次の日だった。
昨日よりさらに寒さは厳しく。完全武装で散歩に出かけた。時間はいつもの時間だ。
橋の下に来ると、折りたたみベッドは組み立てられたまま、布団の状態もそのままだった。
普段なら、これまでなら、いつもその折りたたみベッドは折りたたまれて橋げたのコンクリートの壁に立てかけられ、布団などは橋の下を走るたくさんの配管パイプの上に片付けられていた。
それが昨日と同じように、人が寝ているような恰好のまま靴も昨日と同じ位置にそろえられ、全く変化がなかったんだ。
それを見たとき、私は一瞬ドキリとした。
「まさか…」と私は小さく声に出していた。
おじさんは、ひょっとしてどこかへ出かけてるのかもしれない。あまりに寒いので、知り合いの家にでも泊めてもらっているのかも知れない。その不吉な想像を打ち消すために私は違う可能性をあれこれ考えた。
道の駅まで行き、引き返し、また橋の下まで来るとそのおじさんのベッドの所で立ち止まった。
じっと見ていても布団は全く動いていないように見えた。眠っているだけなら呼吸でわずかに上下しているかと思ったのだ。
でも、それが確認できるほど近くまではどうしても近寄れなかった。
まあ、たまたまおじさんは今朝、朝寝をしているだけかもしれない。明日になったらベッドはいつものように畳まれて立てかけられている事だろう。
そしてもしも、もしも、おじさんが病気のためか、寒さのためか、布団の中で亡くなっていたとしたら。
そう、そんな時は誰かが発見して、警察に知らせるに違いないと思った。橋の下と言っても公園のすぐそばなので、散歩をする人も結構いるんだから、その人がみつければいい。
「わたしが第一発見者になるのだけはごめんだ」そう思いながら急ぎ足で家に帰った。



次の日、目が覚めてすぐにあの事を考えているわたしがいた。
ホームレスのおじさんが寒さのために朝寝を長くするようになったとすれば、きっともう少し時間が遅くなれば、起きているに違いないと思い、いつもより1時間以上散歩に出るのを遅らせた。

入り組んだ港の停船場を「コ」の字型に囲んだ道を歩き、中学校の横を通り、図書館のある公園の中を過ぎ、橋が見えて来ると何となく嫌な気分になった。このまま右に回り、国道を横断すれば橋の下を通らなくても「道の駅」に行ける。
でも、怖いもの見たさと言う事か、足はそのまま橋へと向かった。

ベッドと布団はそのままだった。下に脱いである靴もきちんとそろって同じ位置にある。
わたしの頭の中は不吉な想像でいっぱいになった。
「道の駅」の職員の人や、よく散歩をしていて見覚えのある人とすれ違う時、目が合えば言い出していたかも知れなかった。
「あの橋の下のに住んでいるホームレスのおじさんが、布団の中で死んでいるみたいなんです」と。
交番に行って「ちょっとあの橋の下を調べてもらえます?」と言っている自分を想像してみた。また、公園で訓練をしている消防団員を見かけると、一緒に行って調べてもらっている場面も頭に描いた。
でも実際はそんな勇気もなく、道の駅で一休みもせず、国道の横断歩道を渡って橋の下を通らずに家まで帰ってしまった。
そしてその日からしばらくの間、クッキーの散歩で橋の下を通らないようにした。
もし本当にあのおじさんが布団の中で冷たくなっているとしたら、誰かが見つける事だろう。そうすると新聞の地方版の記事として載るに違いない。段ボールの家の中で一酸化中毒でホームレスが死んだあの事件の時も新聞に載ったんだから。

それから1週間ほど、毎朝、新聞の記事に気をつけていた。
「何だ、最近珍しく新聞を熱心に読んでるんだな?」
お父さんにそう言われるぐらい、何度も地方版の記事をチェックした。でもそんな記事が載ることはなかった。
なんで?なんでみんなあのベッドの上の布団の状態が毎日ぜんぜん変わらないのに気がつかないの?ひょっとして、たぶん、きっと、いや絶対に、あのおじさんが死んでると言うのに!



ある日の朝、とうとう我慢が出来なくなった。もう一度あの橋の下を通ってみようと決心した。あの布団をそっとめくってみるんだと。いや、そこまでは心は決まっていなかった。
そばを通ってみるだけなら…。

ベッドも布団もそのままだった。クッキーがそのベッドの方にわたしを引っ張って歩いた。さらに胸騒ぎが大きくなる。ひょっとして死臭を感じたのかもしれないと。
下に置いた靴もそのままある。
一つ違っていた。人が寝ているとしたら、頭があるあたりに掛けられていた青いジャージの位置が少しずれていたのだ。そして、そこには白髪混じりの頭髪らしいものがのぞいていたんだ。
わたしはゾクッと背筋が寒くなった。その寒気は背中から頭のてっぺんまでかけあがった。
わたしはそのまま引き返した。公園を大回りして家まで帰った。
「あれはどう見ても頭の毛だったような…」
そう思っても、近くに寄って確かめたわけではない。
あれは寒さをしのぐために何重にも重ねられた中の一枚の布団の柄かもしれない。そう思い込もうとしているわたしがいた。
それとはうらはらに、もうあの橋の下には行かないと心に決めていたんだ。



その数日後、今までとはすっかり別の道を、クッキーの散歩で歩いている時、川にかかった小さな橋の上をあのホームレスのおじさんがおんぼろ自転車で渡っているのを見た。離れていたので目を合わせる事もなく、ただ見送ったのだけれど、間違いなくあのおじさんだった。
わたしはその足で、あの橋の下に向かった。おじさんの死体が眠っているはずだったあのベッドがある橋の下へ。
ベッドは折りたたまれ、コンクリートの橋げたに立てかけられ、布団はみんな橋の下の配管の上に重ねられていた。
ほっと、気が緩んだ。
そう。おじさんは急に寒くなったので、朝、布団から出るのが億劫で、いつまでも寝ていただけなんだと思った。毎日同じように布団をかぶり、まったく同じ位置に靴を揃えて置く、そう言う几帳面なおじさんなんだと納得していた。
人騒がせなおじさんだと、少し腹が立った。
そして、自分の勘違いなのにおじさんに腹を立てている自分が馬鹿みたいだと思ったんだ。

「道の駅」まで行き、久しぶりにそこで飲み物を買い、一休みしている時にふと何か違和感を感じた。
あのおじさんが寝ていたあの場所が、何かおかしかったんだ。
そう思い出すと急に心がそわそわと落ち着かなくなり、コーヒーを少し残したまま缶入れに放り込み、橋の方へ向かった。
橋に近づくにつれてまた前のような胸騒ぎが大きくなって行った。今度は、なぜ胸騒ぎを覚えるのかその原因が分からないだけに、より不安が大きかった。
ベッドがあった場所に来ると、あの匂いがしていた。夏の間、おじさんがいつも足元で焚いていた蚊取り線香の匂い。
ふと、今は真冬で、蚊取り線香なんか、必要がないのに気がついた。
ベッドがおいてあったあたりの枕元の近くにワンカップのお酒の瓶があって、その中に線香の燃えかすが入っていた。渦を巻いた蚊取り線香ではなく、棒線香だった。線香の匂いがすると言う事はつい最近までこれが焚かれていたと言う事だとわたしは気がついた。

さっき橋の上で見かけたおんぼろ自転車のおじさんを思い出していた。
楽しそうだった。いつもの寂しそうなおじさんではなかった。鼻歌でも歌っているかのように浮き浮きとして笑顔を浮かべたおじさんは初めて見たような気がする。

それからわたしはぴったりと新聞を見なくなった。
「橋の下でホームレスの男性が…」
そんな記事を見たくなかったんだ。そんな記事を読んだお父さんやお母さんから、そういうニュースを聞きたくなかった。もし誰かがそれをしゃべり出したらきっと耳をふさいでしまったと思う。

そう言うひどく不安定な精神状態は3日後まで続いた。

おわり




いま、ちょっと長めのミステリーっぽい作品を書いているのですが、なかなか進みませんねー
その代わりにちょこっと書いてみたのがこの作品です。
ちょこっとと言う割に長くなりましたが、3時間ぐらいで結構楽に書けたので、感覚的に「ちょこっと」なんですよね。
実はこれ、最後の部分以外は殆ど実話なんです。
散歩の途中に僕が体験した事を、女子高生を主人公に置き換えてお話しにしてみました。
まあ、僕の精神年齢というか、このお話の中で取る行動自体が、高校生程度かもしれないと言う事ですけどね(笑)

さてさて、雫石鉄也さんの「主人公は大人の男性という感じがしました」という感想を受けて、女子高生と思ってもらえるように精いっぱい書き直してみました。
どんなものでしょうか?
雫石さんは男性を主人公にして書いた方がいいのではという事なのですが、ここは僕の趣味として、女子高生で突っ張りました(笑)
枚数は2枚増えましたよ。

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by marinegumi | 2012-02-08 22:06 | 短編小説(新作) | Comments(10)

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義雄は戸惑っていた。見知らぬ路地に入って少し歩いただけなのに元の広い道に戻れなくなっていたのだ。完全に方向感覚を失っていた。
「これも歳のせいなのか…」
義雄は半ば諦めたようにつぶやいた。
彼は今年80歳になったところだった。早朝の散歩は欠かしたことはなく、いつも同じルートだと飽きるので、時々思いついた時に違う道に入った。それが今回は家の近所にかかわらず道に迷ってしまったようなのだ。
同じ道を何度か行ったり来たりしているうちに転んでしまい、ズボンのひざに血がにじんだ。足腰も急激に衰えて来ているらしい。気を取り直し、こっちかもしれないと、曲った道は行き止まりになっていて、目の前には綺麗な花が咲いた生垣があった。
「これは何という花だったかな?」
義雄がそう言った途端にあたりが真っ暗になり、すぐにまたゆっくり明るくなると、彼は奇妙な空間に立っていた。
丸く暖かな光に包まれた床のあるドームのような空間だった。壁らしいものは見えず、光が丸く空間を仕切っているのだった。
その空間の義雄が立っている反対側に一人の白い服を着た、白いひげの老人が、なにやら白いふわふわした椅子に座っていた。
「神様?」
義雄はなぜかそう口に出していた。直感的に神様だと思ってしまったのだ。
「おお、よく来たな。私はそう、神様だよ」
神様はそう言った。
「人間がここに来るのは、この前は125年前だなぁ。ともあれ珍しいお客様じゃ」
「どうやって私はここへ来たんでしょう?」
「なんだって?ここへ来る方法を知らずに来たとでも言うのか?」
と、神様は不思議そうな顔をした。
「そこの路地を入って、3メートル歩いて引き返し、もう一度入って次の三差路で左に入ってすぐ引き返し、右の道に入って5メートル歩いて引き返し、元来た道を半分ほど戻ってから三差路の真ん中でいったん転んで、左の道を突き当りまで来て「これは何という花だったかな?」と合言葉を言うと、ここへ来る扉が開くのじゃよ。お前はその手順を踏んだから、ここにこうしておるわけじゃ」
「そうだったんですか?それはまたすごい偶然が重なったようですね」
「なんだ?偶然だったのか。まあいい。では125年ぶりに人間の願い事をかなえてやるとするか」
「願い事ですって?」
「そうじゃよ。人間がここへ来るのは願い事以外に何があるのじゃ?何もなければそれでもいいぞ」
「いえいえ、そんな事はないです。願い事、ありますとも」
「童話によくあるように3つの願い事ではなく、願い事は一つだけじゃ。ただし同じ願い事なら何度でもかなえてやれるぞ」
「私は自分の人生が不運続きだったもので、いつももう一度やり直したいとばかり考えて生きて来ました」
「まあ、幸せな人生を送っても、もう一度やり直したいと言う人間もあるがの。それでは?何歳ぐらいからやり直したいのじゃ?」
「そうですね。10歳ぐらいからがいいです」
「で?これまでのお前の人生の記憶は消してしまって新たにやり直すか、それとも記憶はそのままがいいのかどっちじゃ?」
「記憶が無くなるとまた同じような人生を歩んでしまうと思いますから、今の記憶のままがいいです」
「オッケー」と神様は軽く答えた。
「すぐに戻してやろう。気が付けばお前は10歳じゃ」
「その前に聞きたい事があります」
義雄はこの神様のいる場所へ入るための手順をもう一度聞いた。また戻って来る必要があるかもしれないと思ったからだ。
「路地を入って、3メートル歩いて引き返し、もう一度入って次の三差路で左に入ってすぐ引き返し、右の道に入って5メートル歩いて引き返し、元来た道を半分ほど戻ってから三差路の真ん中でいったん転んで、左の道を突き当りまで来て「これは何という花だったかな?」と合言葉を言うと、ここへ来る扉が開くのじゃよ」
義雄は物覚えの悪くなった頭で必死に覚えた。
「しかし、ここへ来るあの路地は最近出来た道ではないのですか。百年以上前からあったのですか?」
「あったともさ。ここが野原だった時から、目にはみえないが存在していたのじゃぞ。どんなに未来になろうともあの路地を道として残さずに建物を建てる事は絶対に出来はしない」
それを聞きながら義雄はふと気が遠くなった。

意識が失われてしまう前に義雄は自分が小さな体で小学生の頃の自分の部屋から外を見ているのに気が付いた。
義雄は自分が恋をしていたのを思い出した。窓から見える赤い屋根の家の女の子、同級生の京子の事を好きでしょうがなかったのだ。
でも、義雄はその思いを抱いたまま、どうしていいのか判らず、京子にわざとぶっきらぼうな態度をとったり、筆箱を隠したり、心とは反対の行動ばかり取っていた。
その事が思い出すたびに歯がゆかったのだ。まずその事から始めようと義雄は思った。明日学校へ行ったら…

京子には精いっぱい優しく接した。男子から、からかわれたりしているのを見るとやめさせた。その頃の10歳のままの本来の自分ならとても出来ないような面白おかしい話をして京子を喜ばせた。いくら引っ込み思案で、口下手だったとしても、80年も生きて来た義雄にとって、それは簡単な事だった。
同級生の男子に京子の事で、喧嘩を売られたりしても負けなかった。義男は喧嘩はめっぽう弱い子供だったし、もちろん今でも肉体的には同じ力しかなかったが、80年の経験で、喧嘩の体の動かし方がわかっていたのだ。

中学校に進んでも京子とはずっと仲が良かった。
高校に進むと義雄は将来の商売の計画を立て始めた。自分が大人になった頃にはパソコンのネット販売が主流になって行くのがわかっていたので、真っ先にその業界に飛び込むつもりで準備を始めていたのだ。
そして、大学に行きながら会社を興した。
義雄は前の人生でも見合い結婚はしていた。いつも不機嫌な嫁で、5年目に子供もないまま別れてしまった。それ以来ずっと一人暮らしだったが、今度の人生では、大学在学中に京子と結婚をした。
会社の経営は細々としたものだったが、やがて大きく花開く事がわかっていた。
一度競馬で儲ける事も考えて、前の人生で買って負けた記憶のある競争の結果を見たが、覚えている着順通りではなかった。
前の人生とは少しづつ違う人生なのだとわかった。

大きく成功を収めたネット販売会社の会長に収まった義雄は80歳になっていた。そして思った。なんと時間の経つのが速かった事かと。
前の人生の子供の頃は時間はゆっくりと流れていた。歳をとるにつれて時間は早く流れるように感じられ、80歳の頃にはもう、1年が子供の頃の数カ月しかないような気がしていた。
そして2回目の人生を送る事になったが、時間の流れる速さは80歳のそのままで、歳をとるにつれてさらに速くなって行った。
それは予想外の事だった。一応社会的な成功を収めたものの、短く、充実感がなく、ひどく欲求不満な2回目の人生だったのだ。

義雄はあの時と同じ、神様の居場所へ通じる路地にやって来た。
そしてそこへ入るための手順を忘れないように書きとめた紙を取り出した。
路地を入って、3メートル歩いて引き返し、もう一度入ってその先の三差路で左に入りすぐ引き返す。右の道に入って約5メートル歩いて引き返し、元来た道を半分ほど戻ってから…
「半分ほどと言うから、歩く距離は大体でいいんだろうな」
三差路の真ん中でいったん転んで、左の道を突き当りまで来ると生垣があった。花の咲く季節ではなかったが義雄は言った。
「これは何という花だったかな?」
その瞬間、義雄はあの半球をした神様のいる空間にいた。

「おう、また来たのか?よく覚えておったのう」
70年前と全く変わらない姿の神様がいた。
「神様、今度の人生はひどく短かったように思います。どうしてでしょうか?」
「それはしょうがないのう。歳をとるとともに時間を短く感じるのはな。お前の精神は、今はすでに160歳なわけじゃからの」
「それにしても、神様」
「なんならもう一度やり直すかな?とことん付き合ってやるぞ」

気が付くと義雄は10歳の体に戻っていた。
ふと自分の部屋の時計を見ると、長針がゆっくり動いているのに愕然とした。5分経過するのに自分の感覚ではせいぜい1分ほどしかかかっていないように思えた。
窓から空を見ると太陽がゆっくりと動いているのがわかった。
時間の流れる速さにうんざりしながらそれから70年が過ぎ、気が付くとまた義雄は80歳になっていた。2回目の人生をほぼなぞる形で3回目の人生の終着点を迎えようとしていた。それはあまりにあわただしく、めまぐるしく、ともすれば人に「のろま」とののしられる事の多い人生だった。2回目の人生をトレス出来なければひどくみじめな人生だったかもしれない。

「またやって来たのか?」
全く変わらない神様はそこにいた。
「どうしてこうなるんでしょうか?時間があまりに早く経ち過ぎるのです」
「じゃからそれはしょうがないのじゃ。歳をとればとるほど時間を短く感じるのはお前が人間だからなのだよ。お前はすでに360歳なのじゃ。どうじゃ?また人生をやり直すかの?」
「もう一度若返っても、まともには生きて行けません。時間の早さについていけないのです」
「それは仕方のない事なんじゃよ。あらゆる生き物の宿命じゃ。いいか?よく聞きなさい。ありとあらゆる生命体の精神エネルギーはそれ自体歳を取るものなのじゃ。人間として生まれた体に宿った精神は若々しく、元気なのだが、体が寿命を迎える頃には少しくたびれているわけだ。そのために時間の経過を速く感じるようになっているのじゃな」
義雄は言葉もなく神様の話を聞いていた。
「つまり人間と言う高度な体を司る精神としては少しくたびれているので、体が精神の重荷になってしまう訳じゃな。人間としての生を終えた精神は、記憶をなくし、今度は少し荷の軽い動物の体に宿って次の生を生きるのが普通なのじゃよ。その動物がまた生の終わりを迎えると更にくたびれた精神は、さらに荷の軽い動物の体に宿る。それを繰り返し繰り返ししながら、最後には単細胞生物に宿り、やがて終わりを迎えるのじゃ」
「そうするとこの私の精神は…」
「そうじゃのう。すでに犬とか、猫ぐらいなら丁度いいぐらいにまで疲労しておるようじゃ。荷の軽い体に入れば時間の経過はそんなに早くは感じなくなるだろうて」
神様も義雄もしばらく何も話さず、向き合っていた。
「それでは次の生は犬でもいいです。ただ、今の記憶は消さないでほしいのですが?」
「それはだめじゃの。『願い事は一つ。同じ願い事なら何度でも聞く』と言うのが約束じゃろ。それでは二つ目の願い事になってしまう」

気が付くと義雄は生垣の前に立っていた。
路地をやっとのことで抜け出すと。我が家へ向かって歩いた。ふと立ち止まり、自分の影を見た。
影は太陽の動きに連れてさらに早く動いていた。
この先何年生きられるのかは分からない。でもまあ何か別の動物として生まれ変わるのは間違いはないので怖くはなかった。それは生命として普通の事なのだから、二つ目の願い事ではなく叶えられるのだ。



おわり



お、このお話は何だ?

どういう経路で思いついたお話なのか、良く覚えてないんですよね。
たぶん犬の散歩中だとは思うんですが。
僕は、神と言うものは目に見えない存在だと思っているので、実態のあるそれもおじいさんの姿の神様はまず書かないだろうと思っていました。
それが書いてしまいましたね。
それが、書きあげてから、お、このお話は何だ?と自分に突っ込んだ理由です(笑)

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by marinegumi | 2011-11-11 00:17 | 短編小説(新作) | Comments(2)

花音 (17枚)

真っ暗な空の下、オレンジ色の街灯に照らされたスクールバスが家の前に止まるのが見えた。濃い霧がバスのヘッドライトの光線で放射状に照らされている。花音(かのん)はコートを羽織り、外へ出ると冷気に震えた。
「カノン」
家の前の庭を通り抜けようとしている時に隣のエーデルフェルト家の小さな男の子、ルカがドアを少し開けて声をかけた。花音の名前を呼んで無表情に手を振っている。これは毎朝の事だった。
花音が手を振り返そうとすると、彼の母親が何か大きな声を出しながらドアを閉め、ルカは見えなくなった。
ドアを閉める前に一瞬家の中で鳴っている音楽が聞こえた。クラシックで、花音もいつか耳にした事があるような旋律がわずかに聞こえ、すぐに閉ざされた。

バスに乗り込むと、いつもの顔触れがあった。同じ日本人学校に通う15人の子供たち。みんな一瞬の笑顔だけで花音を迎え、あとは黙ってバスに揺られていた。
朝の8時だと言うのにまだまだ空は暗く、バスの中から見る街は濃い霧に覆われ、いやな色の街灯の光線の中で、幽霊でも住んでいるようにしか見えなかった。
バスの運転手はこの国の男で、毎朝同じ国営放送のラジオを鳴らしていた。花音には、まだ少しも理解できない、異国の言葉のものさびしい歌を流している。

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日本人学校の教室の窓からは、ようやく明るくなり始めた空が見えた。しかし空は分厚い雪雲に覆われ太陽は姿を見せない。教室の照明は一日中点ったままになっている。午後三時を過ぎるとまた次第に明るさを失い、帰りのバスに乗る頃にはすっかり暗くなっているのだ。
花音と同じクラスの日本の子供たちの顔はこの国の蛍光灯の発色のせいなのか、青白く生気がなかった。彼らは殆どが花音より長くこの国に住んでいた。もうすっかりこの重苦しい冬に慣れているはずだなのだが、一様に表情がなく、休み時間になってもあまり会話もせず、静かに過ごしていた。十分に暖房がきいてはいたが、まるで屋外の冷たい空気の中で耐えているようにさえ見えた。

花音は日本の小学校で、いじめに遭っていた。
いじめられていた原因は、彼女の美しさにあったのかもしれない。生まれつき肌が抜けるように白く、髪の毛が少しブラウンがかり、きれいにカールしていた。クラスメイトの女子の中に混じるとその美しさが際立った。ハーフと言うわけでもないのに日本人離れした美しい面立ちだったのだ。
いじめの始まりは突然だった。
授業が始まり、国語の教科書を広げると、その日勉強するはずのページが真っ黒に塗りつぶされていたのだ。花音がそれに気づいて表情を変えると、教室のあちこちでくすくす笑う声が聞こえた。
ある日は、筆箱の鉛筆の芯がすべて折られていたり、またある時はランドセルの中に土が入っていたりした。

雨が降った冬の日の事、体育館で体育の授業の後、上履きで教室に帰って来るとレインシューズが無くなっていた。放課後、花音が上履きのまま帰ろうとすると、廊下の傘立てに彼女の傘はなかった。
みんな帰った後、花音は雨がやむのを待っていた。校庭の隅のなるべく屋根のあるところを通り、校門に近い体育倉庫の前まで来てその軒下で空を見上げた。上履きも靴下もすっかり濡れ、足は凍えていた。
空は分厚い雲に覆われて、雨は一向にやみそうになかった。
花音は何で自分がこんな目に遭うんだろうと唇を噛んで悔し涙を流した。その涙さえひどく冷たかった。
彼女はもう嫌だと思った。そして、倉庫の前を離れ、運動場の金網フェンスにもたれ、雨に打たれるにまかせながらその場に座り込んだ。
どれぐらいの時間そうしていたのか。急に花音の頭の上で青空が広がった。体が青い光に包まれた花音はそう思ったのだ。
まさかと思いながら顔を上げるとそこには同じクラスの純が立っていて花音に傘をさしかけていた。それは空色の傘だった。
「花音。風邪ひいちゃうぞ」
純はそう言いながら、自分を見上げる花音の澄んだ瞳に心臓がこくりとなるのを感じた。
「どうせならもっと早く来てくれたらいいのに」花音は涙と雨でぬれた顔を両手でぬぐいながら笑った。
花音がいじめられている時も、純だけはいつも他のクラスメイトと一緒になって笑ったりはしないのを彼女は知っていた。花音がひどい目にあっている時、純だけは唇を噛んで、眉をひそめるているのをちゃんと見ていた。
「もっと早く来てくれたら」と言うのは今日の事だけではなかったのだ。
ずっと前から純が来てくれる事を願っていたのだった。

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それからと言うもの、学校の休み時間は花音と純はいつも一緒にいた。
二人はクラスの中で孤独だった。純は花音に対するいじめを防ぐ事は出来なかった。いじめは続いたけれど、その事を純に打ち明ける事で花音は気が楽になった。
ノートが破られたら、純は自分のを貸した。机の上に泥水がかけられると、一緒に雑巾で拭いた。

ある放課後、花音が校舎の裏を通りかかると純がクラスの男子数人に囲まれていた。花音が駆け寄ろうとした時に、彼らは純を袋叩きにした後、花音のそばを通って帰ってしまった。すれ違いざま一人が捨て台詞を言った。
「おまえらもうキスでもしたのか?」
花音はハンカチで純の血のにじんだ額をぬぐった。
「ごめんね。わたしのせいなのね?」
「違うよ。おまえをいじめているやつじゃないよ。あいつらは僕らがいつも一緒にいるのが気に入らないだけさ」

そしてまたいつかの雨の日。昼休みに傘立てを見るとまた花音の傘がなかった。
純は教室の扉を大きな音を立てて開き、雨なのでほとんどの生徒がいる中で彼らに向かって言った。
「だれだ!花音の傘を隠したやつは!?」
ざわついていた教室は静まり返った。
「放課後までに戻しておかないと承知しないぞ!」
純の剣幕に、誰もしばらく黙っていた。あの純を袋叩きにした男子達さえも。
放課後傘立てを見ると骨が曲がり、ズタズタになった傘が戻されていた。
その日花音は純の傘で一緒に帰った。あの雨の日と同じ青い空色の傘で。
「おれ、おまえをずっと守ってやるからな」
と純は花音に対する自分の気持ちを確かめながらそう言った。
「花音、お前、親にはいじめられてる事を言ってるのか?」
花音は首を振った。
「やっぱりな。何で言わないんだよ」
「だって、おかあさんとおとうさん、心配するじゃん」
そのまま純は花音の家にやって来た。花音が学校での自分に対するいじめの事を両親には話していないと言う事を知り、いじめを防ぐ事が自分にはできないのを思い知り、花音の母親に打ち明けたのだ。
それが花音との別れにつながる事を思いもせずに。

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花音の父親は商社マンだった。
彼の勤める会社には、北海に面した小さな国に支社があった。その国は石油の産出国としても知られた北欧の国だった。そこに赴任する人員の候補の数人の中に父親の名前も上がっていたが、彼は受けるつもりはなかった。
だが丁度その時期に、純の話で花音がいじめに遭っている事を知った父親は学校側と話し合いを持った。そして花音本人の告白と学校側のいじめの調査の結果とのあまりの違いに不信感を抱いたのだ。
学校はいじめをなかった事にしようとしている。そんな感じさえ持った父親は、感情的になり、学校から花音を遠ざけるために、海外赴任を一人で決めてしまったのだ。
花音はともかく、反対する母親の意見にも耳を貸さなかった。
もっとも、母親はそれほど強く反対をしなかった。それというのも彼女にはこの「北欧」という響きに、ある種の憧れがあったからなのかもしれない。
しかし、彼らがやって来たのは暗く長い冬の始まる最悪の季節だったのだ。

窓ガラスが白く凍てつく日本人学校の教室。
花音が休み時間に自分の席に座っている時だった。床のきしむ音で目を上げると花音より一つ年上の浩樹が立っていた。花音は5年生、浩樹は6年生だった。このクラスは小学校5年生と6年生が一緒に授業を受けている。
花音と目が合っても浩樹は一瞬何も言わず、花音は自分がいじめを受けていた頃の事をふと思った。
鉛筆を折られる?ノートを破かれる?机の上に水をこぼされる?
でもそんな事はなかった。
「もう慣れたか?」と浩樹は一言聞いた。
「え?」
「この学校や、この街にさ」
花音はかろうじて笑顔を作った。
「だめだわ。寒くて暗くて、もう日本に帰りたい」
その時花音は純の笑顔を思い出した。日本と言う言葉は純に直結していた。ふと、泣きそうになった。
「俺さ、ここへ来てからチェロを習い始めたんだぜ。君も何か好きな事を始めれば?」
「そうなんだ?」
「君の隣の家のエーデルフェルトさん家(ち)の子供二人も一緒に習ってるんだ」
その時先生が入って来て午後の授業が始まった。

花音は3歳の頃からピアノを習っていた。この国へ来てからも続けて習おうという気持ちには全くなれなかった。「凍えてる」と、花音は思った。寒さで手の指が凍えてかじかむように、心まで凍えてしまったようだと。とてもピアノの事まで考えられなかった。

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何日か後の日曜日。花音は両親が買い物に出かけた後、自分は自転車に乗って家を出た。冷たい風で頬が切れるように痛かった。
走るうちに家屋が次第にまばらになり、通り過ぎる木々の間から海が見え始めた。
近くに海があるのを知ってはいたが、実際に見るのは初めてだった。寒く暗い押しつぶされそうな毎日から少しでも解放されたかった。
花音は「海」と言う言葉の響きに大きな開放感を感じていた。開かれたイメージを期待して花音は海へ向かって自転車をこいだのだ。
道を外れて広い草原をしばらく行くと突然草原は終わり、そこから先は絶壁になっていた。そして海が見渡す限り広がっていた。
水平線は確かではなかった。海と空の境がはっきりしなかった。空はどこまでも分厚い雲に覆われ、海は空の色をそのまま写している。
さらに冷たい風が吹きつけて、やがて細かな雪が降りだした。こんなに広い海と空が重苦しい灰色に染まり、花音を包み込んでいる。彼女を慰めるものは何もなかった。
花音はその場に座り込んだ。両腕で膝を抱えてそこへ顔をうずめた。
純に会いたかった。純の笑顔を思い出すと胸が締め付けられた。日本を出発する時に見送りに来てくれたのに、言葉は少なかった。おざなりな挨拶だけで、他には何も言えなかった。
今なら「好きだよ」と言えるのにと、花音は涙を流しながら思った。
そして何度もつぶやいた。
「好きだよ。好きだよ。好きだよ…」

ふと気がつくと、風がやんでいた。目を開けると自分の着ている白いコートがうっすらと青く染まっていた。あの雨の日、純がさしかけてくれた青い傘を思い出した。
まさかと思いながら顔を上げるとそこには青い傘があった。
いや、それは空だった。灰色の雲の花音の真上にぽっかりと丸く穴があき、青空が見えていたのだ。
それは最初のうちはいびつで、まだ穴と呼べるものではなかったが次第にほぼ円形に広がった。穴の中に残っていたわずかな雲も消え、しばらく花音の上で青い傘のように広がったのだ。

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やがて次第にまた雲が押し寄せ、空は全体が灰色に戻ってしまった。
花音は無意識のうちに立ち上がっていた。彼女はその自然現象に圧倒され、重苦しい気持からひと時解放されていた事に気が付いた。
「花音?」
と背後から名前を呼ぶ声がした。浩樹だった。
「今の見たか?すごかったね。雲に穴があいて、青空が丸く見えてただろ?」
花音はその青空がまだそこにあるように、見上げながら言った。
「まるで青い傘をさしかけられた見たいだった…」
「あー、うまい事言うね、花音」
「でも、どうしてこんなところに?」と花音は聞いた。
「車で君の家に行く途中に、君を見かけたんだよ。この先は断崖絶壁で危ないからって、お父さんに言われて追いかけてきたんだ。なんか自殺でもするような雰囲気だったしね」
「何言ってるの?」花音は笑い、浩樹をぶつ格好をした。
「でもどうして私の家へ?」
「まあ、何と言うか、遅すぎた歓迎パーティーと言ったところかな?さあ、行こうよ。今頃君のお父さんも、お母さんも、パーティーの買い物から帰ってると思うよ」
「そんなの聞いてないよ?」
「しまった。内緒だったのかな?」

浩樹の車に遅れて家に着くとみんな揃っていた。
浩樹と浩樹の弟と父親。お隣のエーデルフェルト家のルカとその兄のロベルト。さらに日本人学校に行っている女の子の彩夏の顔もあった。
賑やかな食事がしばらく進んだ所で、浩樹は立ち上がった。
「それじゃそろそろ始めようか?」
子供たちはみんなそれぞれに楽器ケースを開き、自分の楽器を取り出した。
浩樹はチェロだった。ロベルトはビオラ。ルカと彩夏と浩樹の弟はバイオリンだった。
「この曲は花音、君が来てから練習したんだぜ。タイトルは『パッヘルベルのカノン』て言うんだよ」と宏樹はいたずらっぽく笑った。
「カノン?」
「そう。花音のためのカノン」


しばらく曲を聞いてから続きを読みましょう

演奏が始まると、花音はその曲にすぐに引き込まれて行った。
そしてこの曲がエーデルフェルトさんの家から時々くぐもった音で聞こえていたのと同じ曲だったのに気がついた。
美しい曲だった。花音は日本の四季の景色を思い出していた。
特に春の桜の花の満開の景色だ。青い空を背景に薄いピンクの花が綿雲のように広がる映像が目の前に見える様な気がした。
そしてまた夏の海が見えた。どこまでも見渡せる青い水平線。潮の香り。
秋の紅葉に、どこまでも広いコスモスの大群落や一面のススキの高原。
雪の降る風景も思い出された。たまに降るだけの積もらない雪。その中ではしゃぎまわった小さかった頃。
そして純の事も思い出した。自分を守ってくれようとした純と、その純の象徴のような青い傘。あの青い傘は花音にとっては本当の青空だったのだ。
あの雨の日、上履きに雨がしみ込み靴下まで濡らし、凍えていた足の感触。純が級友に袋叩きに合った事。つぎつぎに色んな事が思い出された。
そしてさっき見たあの花音の上に広がった青空の一瞬の美しさ。あの小さな丸い青空を、純と肩を並べて見たかったと思っていた。
曲が終わると目を泣き腫らし、顔中涙でぬらした花音がいた。
「なんだよそれ。花音を元気にしようと思ってみんな頑張ったんだぜ。泣いてる場合じゃないだろ。顔、涙でぐじゅぐじゅだぞ」
と言いながら浩樹も涙ぐんでいた。
花音の母親も父親もまた、涙をこぼしながらも笑顔だった。

次第に日は長くなり、やがてこの小さな国にも必ず過ごしやすい季節はやって来る。
そして短いが、美しい宝石のような夏も必ずやって来るのだ。




おわり



トーナメント参加作品を書いたり、動画をアップしながら少しづつ書いていた作品です。
これを書いている途中にharuさんのブログにこの作品に登場する、雲に穴が開く写真がアップされました。

札幌の空に穴があいた/10月11日午後4時58分

a0152009_153285.jpg
映像無断使用ごめんなさい

おおー、これは!と思いましたね。
何という偶然。
これはharuさんが自分で撮影された物です。
ホールパンチ雲と言う気象現象らしいですね。
僕はこういう気象現象がある事を知らず、あるんじゃないかなーと言う感じでお話に組み込む事にしていたんです。
実際にネットで検索してみるとその写真がたくさん出て来ました。

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by marinegumi | 2011-10-26 21:11 | 短編小説(新作) | Comments(6)

「なつみ。お前の家なー、古い蔵があるやろ?」
この高校に入ってからずっと同じクラスの洋司がいきなりそう言いだした。昼休みの教室での事だった。
「あの蔵ん中、何かお宝が寝むっとるんとちゃうか?掛け軸とか、茶碗とか」
「何べんか入った事はあるけど、そんな大したもんあらへんかったわ。家がお店をしとった頃のガラクタばっかしやし。めちゃ古いレジとか、商品棚とかそんなもん」と、夏海は蔵の中の様子を思い出しながら答えた。
「いやいやー、徹底的に探してみたら金目のもんが出てくるかも知れへんで」
「なんやそれ。出て来たとしてもあんたのもんとちゃうやろ?」
「いっぺん探しに行ったろか?」
「やめてよ。テレビの鑑定番組の見すぎやわ」
学校での話はそれで終わった。

家に帰ると、ふとその事が気になっている自分に気がついた。洋司の言うようにお宝があるかもしれないとは思わなかったものの、小さな頃に遊びで時々入っただけで、もう何年も入った記憶がない、その蔵がなぜか心に引っ掛っていたのだった。
夏海の家は、京都でも古い町並みが残る場所で、広い敷地の隅に蔵だけを残し新しく建てられた家だった。二階の自分の部屋で机に向かいながらふと庭を見ると、黄色い花をつけた金木犀(きんもくせい)の向こうにその蔵は見えた。土壁はもうあちこちがはがれ、少しひずんでいるようにさえ見えるその蔵を、色着き始めた蔦の葉が優しく包んでいる。
宿題を片付け、台所に降りてコーヒーを入れ、飲み終わると庭に出て、それが当り前のように夏海は蔵の前に立っていた。蔵の扉にはかんぬきがあったが、それに付いていた南京錠は今はない。盗られて困るものはないと言う事だ。
中に入ると埃のにおいが鼻をついた。それだけで昔に戻った気がする不思議な空間だった。
開いた扉からの光で中を見わたす。中に置かれているものは骨董品と言うにはほど遠い物ばかりだった。祖父の代までこの場所で商売をしていて、それをやめた時に店を片づけたガラクタが押し込まれた格好だ。
見て回るうちに一番奥の方に、古い時代の鏡台や卓袱台や複数の箪笥などがあるのを見つけた。その中の一つの和箪笥の前に来ると、夏海は自分が気になっていたのはこれだった様な気がして、しばらくその前に立っていた。

a0152009_21411348.jpg


上から3番目の引き出しだ。他の引き出しには何も入っていない事がなぜか解っていたが、夏海は順番に開けて確かめた。そして3番目の引き出しから畳紙(たとうがみ)に包まれた着物を取り出した。紐を解き、古びてしみの出来た和紙を広げると、思わぬ色鮮やかな柄の振袖の着物が現れた。
夏海は迷わずそれを広げ、洋服の上から羽織ってみた。そうせずには居られなかったのだ。
たくさんの花の絵柄の着物だった。赤の地に牡丹(ぼたん)だろうか。繊細な花が流れるように描かれていた。しかし、右側の袖の部分だけが花の種類が違っていて、どうやら椿(つばき)らしい花が描かれていると言う変わったデザインだった。
夏海は鏡台があったのを思い出し、その前に立って鏡の幕を上げた。薄暗い蔵の中で鏡に映る着物を羽織った自分の姿。薄暗いながらもその着物の鮮やかさはよくわかった。
着物を足元から見上げて行き、ふと自分の顔を見て妙な気分がした。鏡のせいなのか、像が二重になっている気がした。いや、夏海以外の誰かの顔と夏海の顔が重なっている、一瞬そんな感じに見えたのだ。
あわてて着物をたたみ、畳紙に包みなおすと和箪笥に収めた。
蔵の外へ出るとそろそろ夕暮で、庭中の金木犀の香りにほっとした。蔵の中で感じたあの不思議な感覚が嘘のようだった。

それからも夏海はあの着物がずっと気になっていたので、ある日母親に聞いてみる事にした。
「赤い振袖の着物?あー、そう言えばあったわね。あんたのおばあさんの着物やよ。普通結婚してしもうたら振袖なんか着なくなるんやけど、よっぽどあの着物が好きやったんやろね」
「おばあさんて、どんな人やったの?」と夏海は聞いた。
「夏美は覚えてへんわな。あんたが二つの時に亡くなったんやさかい。おばあさんは、引っ込み思案と言うんやろか。気が弱いと言うんか、なんかおじいさんの影みたいに暮らしてはったわ。そうそう、それと言うのも、あの振袖や」
「振袖がどうしたん?」
祖母はこの家の一人娘だった。そして、商売を継がせるために養子をもらう話を親が決めたと言う。

でもなかなか祖母はその結婚に応じようとしなかったらしい。と言うのも、祖母の右腕にはやけどの跡があったのだ。それを気にして結婚することを長い間、ためらっていたと言う。
そのやけどの原因が振袖だった。
彼女が14歳の頃に買ってもらった振袖がうれしく、時々箪笥から出しては羽織り、鏡に映して見とれていたのだ。そんなある冬の事、また着物を羽織って鏡の前に立っている時、振袖に石油ストーブの火が燃え移ったのにしばらく気がつかなかったのだった。それで大やけどを負ってしまったと、夏海の母親は聞かされていたらしい。
「ああ、それであの着物は右の袖だけ花の種類が違うんやね」
「そう、そこだけ作り直したんやわ」
「でも、おばあさんて、お母さんと一緒やね。一人娘で、養子さんに来てもろた言うところ」
「ほんまやね」と、母親は笑った。
「ひょっとして夏海。あんたもひとりっ子になるかも知れへんなー。うちの家系はひとりっ子の家系なんやろか?」
「ちょっとー!わたしは弟が欲しいんですからね。イケメンの弟が」
母親は少し寂しそうに笑った。

それからもずっと夏海はその着物の事が頭の中にあった。
ある夜の事、再び蔵に入って箪笥から振袖を取り出していたのは、着物を見つけてから一週間後だった。
改めて見ると、古びて色の変わった畳紙には「京子」と名前が書かれていた。それが祖母の名前だった。真っ暗い蔵の中にランタン型の懐中電灯を持ち込んで振袖を羽織り、鏡台の前に立った。夏海は自分の行動に自分でとまどっていた。しかしどうしてもそうせずには居られず、その事に喜びさえ感じていたのだ。
そして、しばらく鏡を見つめるうちに、その鏡を見ているのは自分だけではない事に気がついた。鏡の自分の顔がにじみ、誰か夏海とよく似た女の人の顔と二重写しになっている感じがした。その人は、鏡の向こうから夏海を見つめているのか、それとも…

夏海は京子だった。

京子は自分の部屋にいて、鏡台の前で振袖姿を写してしていた。京子の中のわずかな夏海の意識の部分で、これは建て替える前の自分の家なのだと理解していた。
京子は琴の師匠の家で開かれた演奏会に出席し、今、帰って来たばかりだった。着物をすぐに着替えてしまうのがもったいなく思え、そうやってしばらく自分の振袖姿を見ていたのだ。
その時、裏庭に面した窓ガラスをたたく音が聞こえた。
目をやっても窓の向こうには誰もいない。京子は廊下から縁に出て庭を覗いた。蔵の向こう側に隠れながら自分を見ている人がいた。隆志だった。
京子は駆け寄ると隆志の手を取って、蔵の中に引っ張って入った。
蔵の中は真っ暗だったので京子は、箪笥の上に置かれた灯油のランタンに火を点けた。
「もう来んといて言うたやないの?」
揺れる光の中で、隆志は無言だった。
「あんたとはもう会わへん言うて約束したやろ?」
隆志は京子の手を握り、唇を噛んでいた。そして二人の手をじっと見つめている。
「忘れられへんのや」隆志はそう言うと手に力を入れた。京子の眼をまっすぐに見た。
「わたし、お父ちゃんが決めた人と結婚するんよ。もう決まってしもた事やさかい」
「しの!」隆志はそう言った。京子には一瞬それが「志乃」という女の人の名前かと思った。
「俺と一緒に死の!」隆志の声は震えていた。
「なに言うてんの?」京子は隆志を押しのけて外へ出ようとしたが右の袖をつかまれた。隆志は京子の肩を掴んで蔵の奥へと押して行った。
隆志は蔵の中の道具類を扉の前につぎつぎに運んだ。人が入ってこられないように、京子が外へ出られないように。
京子の中の夏海の意識がふわりと大きくなる。京子があまりに頼りなく、隆志にそれほど強く抵抗もしない事を不思議に思い、このままでは確実に死ぬことになるのではないかと言う恐れから夏海は京子の意識に負けないように自分の意識を強く持った。
隆志は蔵の中にあった灯油の缶から中身を蔵の床に撒(ま)き始めた。隆志は京子の腕を掴んで引き寄せ、缶に残った灯油で着物の右の袖を浸した。今はまだ牡丹の柄の右側の振袖を。
そして隆志はマッチを取り出した。
夏海は理解していた。おばあちゃんのやけどの原因はこれだったんだと。
「しっかりしなさい!」夏海は京子の声でそう叫んだ。
「人を殺して自分も死ぬんやて?!そんなの今時、流行らへんわよ!」と言うなり、隆志の頬を思いっきり叩いた。隆志はよろけて蔵の壁にぶつかって、そこに倒れた。
「ガソリンならともかくね、撒いた灯油に火が点くわけないでしょ?わたしが火傷するぐらいが関の山やわ!」
隆志はうろたえた。こんなに激しい京子を見たのは初めてだったのだ。すでに一緒に死ぬという決心は忘れられていた。
夏海は隆志に雑巾で、撒いた灯油を拭かせた後、道具類を元の位置に運ぶように言った。
その途中、隆志が運んでいた古い障子の角が燃えているランタンに当たり、それが床に落ちて割れたのだ。一瞬、火が床の上で燃え上がった後、炎は小さくなりかけたが、障子紙に燃え移ってしまった。
瞬く間に炎は大きくなり手がつけられず、二人は外へ出た。隆志は裏木戸から庭の外へ逃げ出し、京子は自分の部屋に戻った。家は商売が忙しく、まだ火事には誰も気が付いていない。京子は鏡台の前でうろたえていた。
京子は鏡に写る自分の顔を見た。夏海はこんな時に京子は何をやっているのかと、いらっとした。
その時、鏡の中の京子の顔と、夏海の顔が二重写しになり夏海と京子の意識がそれぞれに別れるのだと思った。
「お店に行って、蔵が火事だと知らせなさい」と、声に出したのか、そう思っただけなのか夏海には解らなかった。

夏海は夜の庭に立っていた。
振り向くと、そこには明るく蛍光灯の光に満ちた自分の家があった。家の方に数歩歩いて、自分が今いた場所を振り返った。そこにあったはずの蔵が嘘のように無くなり、ただ青々とした芝生と、様々な庭木がわずかな風に葉を震わせていた。金木犀の香りがひときわ濃かった。
「蔵…、燃えてしもたんや…」
夏海は羽織ったままの振袖を見た。右の袖の花の柄が変わっていた。元の牡丹の花柄に戻ったのだ。
匂いをかいでみたが、灯油の匂いはしなかった。

それから何日か夏海は考え続けた。ひょっとしてあの時の自分の行動で、歴史に何か変化を与えてしまったんではないかと。しかし蔵が無くなった以外には特に大きな変化はないように見えた。
祖母は火傷をしなかったはずだと言う事に夏海は思い至った。
母親は、祖母が火傷の痕を気にして結婚をしばらくためらっていたと言っていた。そうすると、火傷をしなかったならもう少し早く祖母は結婚していたのではないだろうかと。

さらに数日後。
夏海が高校から帰ると、見知らぬ女の人が応接間で母親と話をしていた。
「こんにちは」と夏海が言うと。
「あー!なっちゃん。大きゅうなったね」とその人が笑顔で夏海の手を取った。
夏海がきょとんとしていると母親が言った。
「大阪のおばさんでしょ?私の姉。まさかあなた、忘れたり…」
「そやかて、お母さんはひとりっ子のはず…」私が言いかけると。
「あー、そやそや。しばらく会わへんうちに、わたし太ってしもたもんね?」
その人は、がははは、と豪快に笑ってから、ふと真顔になる。
「そこまでは太っとらんちゅうねん!」
夏海はさらに大笑いするおばさんを、唖然と見続けるしかなかった。




おわり



どうも最近小説のアイデアが、浮かんでこないなーなんて思っていたのですが、そういう場合は初めに何かテーマを決めるのがいいようです。
テーマと言うほどのものでなくても、たった一言の言葉でもいいんですね。この作品は川越さんの「袖にまつわるショートストーリーブログトーナメント」に乗っかったもので、普段の僕なら到底ネタにするとは考えにくい「袖」という言葉だけから出発して書き上げたものです。
今回はそのたった一文字からどう言う物語が出来上がるのか自分でも興味深々でした。
これからはずっと、こういう方法で考えて行きましょうか。一つの言葉だけから連想して行き、お話に仕上げる。
これまでは、お話を考えるのは意外な物の組み合わせがいいだろうと言う事で、たとえば「電車」と「ぼたもち」みたいに二つの言葉から連想すると言う事をよくやっていました。
でも、その方法で「これは!」と言う作品は出来なかったように思います。
なんででしょうかねー
言葉が二つと言う事で気持ちが散漫になるからでしょうか?
これからは一つの言葉ですね。
実は「袖」と並行してお話を組み立てていたもう一つの言葉があります。それは「手首」でした。「手首」と言う言葉から何かお話をひねりだしてやろうと言う事で、頭の中ではほぼ出来上がっています。

「袖」と「手首」のこの二つの言葉は、最初からそれぞれ別々のお話を考えてやろうと、頭の中に置いていたものです。それが30分ほどの犬の散歩中に同時にお話になり始めて、一時ごっちゃになったりしながら、なんとか二つのお話の概要が出来たんですね。ちょっと不思議な体験でした。
次回アップするのは「手首」の方の作品になります。

えーと、今回はずいぶんタイトルに苦労しました。
いつもならすんなりと、なんとなくタイトルが出来てしまうんですが、記事を入力し終わって、画像も入れて、トラックバックも入れて、後は投稿ボタンを押すだけという段階に来てもまだタイトルが出来ていませんでした。
気に入らなければ後で変えてもいいやと思って、このタイトルになりました。
考えて見ると、良いタイトルかもしれません。
牡丹は春、椿は冬、その間の季節の秋に金木犀がある。なんてちょっと物語を象徴している感じですね。
「蔵の中から」「牡丹柄の振袖」「牡丹と椿」など、いろいろ考えましたが、どれも僕らしいタイトルではないなーと言う気がしたのです。


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by marinegumi | 2011-10-08 21:46 | 短編小説(新作) | Comments(9)

この作品はharuさんが朗読してくださっています。先に朗読から聞
朗読からのつづきは落ち葉の写真の下からです。
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わたしがまた、その病院に戻って来た時には、季節はすっかり冬になっていた。
前に入院していた時の病室は307号室で、廊下を挟んだ向かい側の326号室が今度のわたしの部屋になった。
ベッドに腰掛け、窓から外を見ると葉をすっかり落とした落葉樹の林が広がっている。
ドアを押し開け顔を出すと、しんと静まり返った消毒液の匂いのする薄暗い廊下が伸びていた。
「じゃんけんぽん」
小さな声が頭の中で聞こえた気がした。か弱いその声の持ち主の顔を思い出していた。


わたしが307号室にいた夏のある日の事だった。
つらい治療から帰ってきたわたしはベッドに横になり、小学校の国語の教科書を胸の上に広げて伏せたままぐったりとしていた。目を開けると、焦点の定まらないわたしの視線の向こうに小さな男の子の笑顔があった。半開きにしていたドアのすきまからのぞき込んでいたんだ。
その子は青い縦じまのパジャマを着て、大きな大人用のスリッパをはいている。わたしより五歳ほど小さいかなと思った。真ん丸な顔をして、はち切れそうな笑顔だった。
部屋に入って来ると横になっているわたしの目の前、鼻と鼻がくっつきそうなほど近くで言った。
「おねえちゃん、あそぼ」
小さなよわよわしい声だった。
「わ、わたし今ちょっと疲れてるんだ。また今度ね」少しどぎまぎしながらやっとそう答えた。
「いいよ。また今度ね。今度、何して遊ぶ?」
わたしは強い眠気に襲われ「かくれんぼでもしようか…」そう言いながら、男の子の返事も聞けないうちに眠りに落ちてしまった。

307号室の窓からは遠くに街並みが見えた。さらにその向こうに海が広がっていた。
たった今、看護婦さんが体温を測りに来て、注射をして出て行ったばかりだった。それを待っていたようにドアが開くと、昨日の男の子が入って来た。
「おねえちゃん、あそぼ?」

わたしたちは部屋を出て、屋上へ続く階段を上がった。そこは洗濯機や掃除道具や色んな物が置いてある塔屋だった。
「ようし。かくれんぼだね。じゃんけんに勝った方がかくれるんだよね?」
「うん!」男の子は本当にうれしそうに笑った。
「じゃんけん…」
その時、男の子の名前を呼ぶ声がした。看護婦さんとお母さんらしい人が上がって来た。
「だめでしょ?ちゃんと大人しく寝てなくちゃ」
男の子は手を引かれ連れ戻されていく間、ずっと下を向いていた。わたしは寂しくなっていた。
こっちを向いて「バイバイ。また今度ね」と言ってほしかったんだ。

それから何度もそういう事があった。
男の子が大人の目を盗んで病室を抜け出して来ては、かくれんぼをしようと言う事になる。でも、その子の病状は看護婦さんや両親はもちろん、入院している人みんなが知っていた。だからたいていは、じゃんけんをして、まだゲームが始まらないうちに大人たちに見つかり連れ戻される。
かくれんぼを一度も始められないうちに、いつのまにか男の子はわたしの病室に顔を見せなくなってしまった。

そんな事を思い出しながらわたしは海側の307号室とは全く違う窓の外の景色を見ていた。
男の子はあれからどうしたんだろう。しばらくしてわたしは退院する事になったので、その事が気になっていたけれど、どうする事も出来なかった。男の子は病気が治って退院したのか、それとも…。
その時、ストッパーで半開きになっている病室のドアの隙間から小さな手がのぞいているのが見えた。握られたその手がぱっと開き、つぎにハサミを作った。グー、チョキ、パーだ。
ドアがすうーっと開き、青いパジャマのそでが見え、あの時の男の子が立っていた。
「おねえちゃん、あそぼ!」元気そうな声で男の子は言った。
「ま、まだここにいたのね?」初対面の時と同じようにわたしはちょっとうろたえていた。
男の子はわたしの手を引いて廊下へ出た。そしてまた屋上へ続く階段を上がり、洗濯機の横でじゃんけんをする。
「じゃんけん、ぽん!」あいこだった。
「あいこで、しょ!」
「やったー!」わたしの勝ちだった。
「じゃ、わたしがかくれるわね」男の子は笑顔のままうなづいた。
「なにやってるの?」看護婦さんが立っていた。
男の子はひきつった顔になり、走って階段を下りてしまった。
「病気を治しにここに来てるんでしょ?ちゃんと病室でおとなしくしていなさいね」
看護婦さんは男の子がいなくなったので、わたしに向かって言った。

それからも時々男の子はやってきたが、前と同じようにすぐに誰かに見つかってしまい、なかなかかくれんぼは出来なかった。
わたしは、一向に良くならない自分の病気に絶望的になり始め、生きているうちに一度でいいから男の子とかくれんぼをしたいとまで思うようになっていたんだ。
そして、やっとその願いがかなったのは、秋の気配を感じる事が多くなったある日のことだった。

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その日は朝からなんとなくいつもと違っていた。それはたぶん新しい痛み止めの薬や、一緒に飲んだ薬のせいだったと思う。空は晴れるでもなく曇るでもなく、まるで夕暮のような光に満ちていた。病院の中もその光にあふれ、お医者さんや、看護婦さん、入院患者の子供たちも、大人の人もみんな穏やかな顔をして、その不思議な光の中で行きかっていた。
わたしはその頃には一日中ベッドに横になっている事が多くなっていた。目を閉じてはいたけれど痛みのため、眠れずにいた。
その時、目を開く前からわたしは、男の子がベッドの横に立っている事を疑わなかった。
「おねえちゃん、かくれんぼしようよ」と言いながら男の子はわたしの手を引いた。すると不思議な事に、自分が痛みもなく、少しも疲れていないのに気がついた。わたしたちは階段を上がり、塔屋から屋上へ出た。
「よーし!今日こそかくれんぼだ!」
「じゃんけん、ぽん!」
一度目でわたしの鬼が決まった。
「それじゃ、ちゃんと目隠ししてね。10数えるんだよ」と言いながら走り去る男の子の足音を、わたしは闇の中で聞いていた。
オニになったり、かくれたり、二人で交互に繰り返しかくれんぼを続けた。いつもわたしが男の子を見つけるのは難しく、わたしは反対に男の子にすぐに見つけられてしまった。

海の向こうから夕闇が押し寄せる頃、二人はやっとかくれんぼをやめた。階段を下り、廊下をかけて行く男の子。
「ばいばい。またね」そう言いながら向こうの角をまがった。

わたしが326号室に帰ると、看護婦さんが待っていた。いや、担当の先生や、隣の部屋の患者さんまでが一緒にそこにいた。
「どうしたの?みんないっしょに」わたしは聞いた。
「どこにいたの?」と看護婦さんが反対に聞き返した。
「ずっと探し回っていたのよ」
「屋上や塔屋やボイラー室で男の子とかくれんぼしてたの。それでもわたし、ちっともしんどくなかったのよ」
わたしが笑顔を作っても、みんなは無表情のままだった。
「いい?そんな男の子はこの病院にはいないのよ」
看護婦さんが何を言っているのか判らなかった。
「あなたが時々誰かと話をしたり、じゃんけんをしたりしているのを見たわ。でもあなたの前には誰もいなかったの。いつもね。それで私たちはそんなあなたを見ると、すぐにやめさせていたの」
話している看護婦さんのそばの壁に鏡が架かっていた。
その鏡には見知らぬ女の人が写っていた。
それがもう子供ではなくなった私だと言う事に気がついた時、この十数年間の私の記憶が一度に私の心を満たして行った。それと共に体に疲労感と、痛みが戻ってきた。
「いいですか?あなたがいつも言っていた男の子はもう十何年も前に、この病院で亡くなってるんですよ」
病室が現実感を取り戻し、消毒液の匂いが空気に満ちていた。


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(haruさんのブログからの つづき はここからです)

それからさらに何年もが過ぎた。
私は色んな病院を替わり、入退院を繰り返し、負けそうになりながらもなんとか病気と付き合って来た。そして今、あの青いパジャマの男の子と初めて会った病院の前に立っていた。
いや、もうそこは病院ではなかった。蔦の葉や雑木林にのみ込まれそうになっているコンクリートの建物。それは原因不明の火事で焼けてしまったあの病院だった建物の廃墟だ。
火事があった事をテレビのニュースで聞いてからも、すでに十年近くが過ぎていた。その建物を一度見て見たいと思いながらも、ずっと体の調子が悪く、最近やっと一人で外出が出来るようになったばかりだった。
私は雑草をかき分け、足元を走るトカゲに驚いたりしながら、建物の中に入った。
受付の前を通り、動かないエレベーターの前を過ぎ、診察室をいくつか数えて階段を上がり始めた。
建物の中は全てひどく焼けただれ、すすで真っ黒になっていた。診察の機器や色んな道具や家具類も熱で変形して、当時のまま残されていた。
3階まで階段を上がると、さすがに息切れがして手足や背中が痛んだ。その痛みでふと我に返り、自分は何をやっているのかと、馬鹿ばかしく思えて来る。でもそんな思いを無視するかのように、足は自然に307号室に向かった。
1,2階と比べるとこの階は殆ど焼けていなかった。それでも307号室のドアはなくなり、窓ガラスはすべて割れ、部屋の中まで蔦の葉が侵入しようとしていた。
ベッドはすこし斜めに場所がずれてそこにあった。私は自然にそれに腰掛けていた。
廃墟の中に一人きり。でも怖くはなかった。昼間だったし、窓の外には優しい日差しの中で、あざやかな緑の葉が風に揺れていた。
ベッドに腰掛けたまま私は右の手のひらを見た。
「じゃんけん…」と声にならない声で呟いたとき、私の前で小さな子供の手がひるがえるのが見えた。反射的に私は「ぽん!」と声に出していた。
顔を上げると、そこには誰もいなかった。ただ、壁にかかった割れた鏡が私を写していた。だいぶ白髪の増えて来た私の顔を。
さっきのじゃんけんは私の負けだった。私がオニになる番だった。
「もうかくれちゃったんだ?」そう声に出して、私は立ち上がった。
「もう探さなくてもいいよね?」
私は病室を出て廊下を歩いた。足どりはだんだん速くなる。そして階段を苦しい息で下り続けた。
もしも後ろで男の子の声が聞こえたら私はきっと悲鳴を上げただろう。

でもそんなことは起こらなかった。




おわり



haruさんの詩「かくれんぼ」を元にした掌編小説です。
haruさんの要望(めちゃぶり)で書くことになっちゃいました(笑)
この作品を朗読して下さるそうですが、朗読は原稿用紙にして、7枚ぐらいが限界と言っておられたharuさん。
ごめんなさい13枚(12枚半)になってしまいました(苦笑)
そこで、提案ですが、原稿用紙にして9枚ほどの所。

>病室が現実感を取り戻し、消毒液の匂いが空気に満ちていた。

ここで朗読は終わりにしてはどうでしょうか?
ちゃんと結末が付いていますからね。
で、あとがきに、「原作にはさらに驚きの展開が用意されています!」と書く。
haruさんのお客様がみんなこちらを見に来ると言うのはどうでしょう(笑)
ささやかなむちゃぶり返し!
長くなりそうだなと思い始めた時に、そういう遊びも面白いかなと思って、そこで終わってもいいように書きましたから、違和感はないと思いますよ。

川越さんのコメントを受けて、男の子が着ている「かすりの着物」を「青いパジャマ」に直しました。
臨機応変、優柔不断。
でもまあ納得の修正です。


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by marinegumi | 2011-09-21 01:24 | 短編小説(新作) | Comments(6)