僕はいつごろからこの町に住み始めたのだろう。
時々そんな取るに足らない疑問が頭をかすめる事がある。
そう、全く取るに足らない、ほんとにどうでもいいような疑問なのだ。
街の住人、20人足らずの人々はみんな穏やかで優しく教養もある素敵な人ばかりだった。
彼らの間で争い事など、未だかつて起きたためしがない。
まして、知識として知っている殺人などと言う物騒なものとは最も縁のない場所なんだと思っていた。
一年中気候は温暖で、食べ物は有り余るほど自然に採れ、全ての人が広々とした、それぞれ個性的な家をあてがわれている。
ある日、ある時から僕たちがこの町に住む事になり、その時にはすでに必要な物すべてが用意されていた。
僕たちのために。
それだけしか僕は知らないし、また知りたくもない。
毎日毎日が満ち足りて、誰もが幸せで‥‥
ユートピア?
そう、ここが、この町こそがユートピアそのものだと思う。

僕は時々町の果てまで行ってみる。
町の果ては世界の果てだった。
そこから先は何もないのだ。
草木の一本も生えていないのっぺりとした空間が広がっているだけだった。
そこから先へ行ってみようなどと考える事はいらないことだ。
だって、何もない事が解っているのだから。

ある夕方の事だった。
のんびり散歩をしていると町の人が二人で何やらいかにも楽しそうに話をしていた。
挨拶をして通り過ぎようとした時だった。
二人のうちの片方の人がもう一人の首に両手をかけて力を込めて絞め始めたのだ。
僕は立ち止まって二人を見ていた。
多分ふざけてそんな事をしているんだと最初は思っていたが、絞められている方の人の笑顔が苦しみの表情に変わり、やがて真っ青になり、その場にずるずると崩れ落ちてしまった。
何を自分は見たのかが理解出来なかった。
驚くよりもまず信じられなかった。
信じられないのは、なんと首を絞めた本人さえ同じのようだった。
自分の両手を不思議そうに見つめ、すでに息絶えた足元の人に目をやり後ろずさりながら、やがて何やら叫び声を上げて走り去った。
そう、この町に住んでいる限り人を殺さなければならない理由などあるはずもないのだ。
しかし、僕の目の前でそれは起こってしまった。


次の朝、目覚めると家がなかった。
僕が昨晩眠った時には確かに体の下にあったベッドもなくなっていた。
起き上がり、しばらく歩いてみて街そのものがなくなっているのが解った。
あたり一面は濃い霧がかかっている。
そして彼方にかなり高い位置に一つの灯りが見えた。
僕はその灯りを目指すしかなかった。
だって、どっちを向いても白い霧ばかりでその灯りを目標にするしかなかったのだ。

長い時間歩いた気がしたが、すぐに着いてしまった様にも思えた。
たぶん街が消えてしまった様に、時間さえ消えてしまったのかもしれない。

そこには塔が立っていた。
灯りはその塔のてっぺんから出ていたのだ。
特にデザインされた様子もなくただただ高いだけの窓も何もない塔だった。
a0152009_2154672.jpg

目の前にその塔の入り口があった。
中に入ると女の子が一人先に来ていた。
あの町に住んでいた少女で僕と同い年だった。
彼女もまた僕と同じようにこの塔の灯りに導かれてやって来たと言った。
塔の中はがらんどうで、上に行くほど暗くなっていて、天井は見えなかった。

二人の頭上から声が聞こえて来た。
その声は言った。

―私は長い間、人類のユートピアを作る努力をして来た
―しかし人間の数が増えて来るほどに、好もしくない考えを持つ者が現れるのだ
それは人類の数に比例する物なのかどうかと考え、私はそのユートピアの規模を次第に小さくしてみる事にした
お前たちが住んでいた町がその最後の最小のものだったんだよ
しかし、昨日、何の理由もなく人を殺めた者があった
しばらく声は途絶えた。
―おお、私はもう諦めることにしたのだ
お前たち二人だけを残して人間をすべて消してしまおうとな
お前たちはこれから永遠の眠りに就くことになる
声がそこまで言った時、快い眠気が二人を包んだ。
二人は手を握り合い、その場に横になった。
遠のいて行く意識の隅で、声は最後にこう言った。
―私がまたユートピアを作ろうと万が一思い立ったら、お前たちはその新人類の最初の二人になるだろう、アダムよ、そして‥‥
そこから先は聞こえなかった。
たぶん僕がしっかり手を握っている少女の名前、イブを呼んだのだと思う。





 おわり




これまた古い作品を引っ張り出してきました。
壮大な創世記の逆をゆくスケールの小さなお話ですね。

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by marinegumi | 2010-12-30 21:15 | 掌編小説(旧作改稿) | Comments(6)

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今日は、クリスマスイブ。
葉っぱがすっかり落ちてしまったプラタナスの並木のある石畳の歩道。それに面した洒落たカフェで二人は向き合っていた。優紀はカプチーノ、隆司はちよっとカッコつけてブラックコーヒーを前にしている。
さっきから隆司が話しているのは子供へのクリスマスプレゼントの事のようだった。
「子供もまだ3歳ぐらいだとサンタクロースを信じてるだろ?だけど大きくなって来て、多分幼稚園ぐらいになると、もうサンタクロースの事なんか、信じなくなってしまうよな?」
「そうだよね。友達同士でサンタさんの話をするからね」と優紀は少し曇ったガラス窓から外のイルミネーションを見たまま答える。このカフェに入った時はまだ空には明るさが残っていたが、今はもうすっかり暗くなっていた。
「でさ、ぼくはね、自分の子供だけはいつまでもサンタを信じる子供にしたいんだよな」
「そんなの無理でしょ?」
「いやいや、そりゃーいつかは信じなくなるんだろうけどさ。その時期をなるべく先延ばしにしてやりたいわけさ」と、隆司は無意識にスプーンでコーヒーをかき回す。ブラックコーヒーなので無意味な行動だと気がついてスプーンを置く。
「その方法を今から考えてあるんだよ」
「へー、どんなの?」
「子供がそろそろサンタクロースを信じなくなって来たな、と思ったらその年のプレゼントは枕元に置かずに、部屋の窓の外の軒下にぶら下げておくんだ」
「なにそれ?」
「子供が目を覚ますと、枕元にプレゼントがない。がっかりするだろ?」
「そりゃそうよ」
「その時僕が言うんだ。『しまったー!窓のかぎを開けておくの忘れてた!サンタさんは家に入ってこれなかったんだ』ってね。優司はがっかりするよね」
優紀は少し怪訝な顔をした。
「優司が泣きそうになった時にカーテンを開ける。するとそこにはプレゼントが袋に入ってぶら下がっているんだ。『そうか!サンタさんは入れなかったのであそこにぶら下げて行ってくれたんだ!』子供は喜ぶ。サンタさんを信じるよね」
「まあね。ちょっと面白いね」と優紀はまた窓の外へ目をやる。
「しかしだ!」
隆司がそう大きな声を出すと、優紀は大きな目で隆司を見た。
「それでもいつかまた信じなくなる時がやってくるんだよなー」
「そだね」
「そんな時は次の手だ」
「まだ考えてあんの?」
「今度はちゃんとプレゼントは枕元に置いとくんだ。そして、夜中の3時頃に子供を起こすんだよね、大声で。『おい起きろ!大変だ。今サンタクロースが来てたぞ。ここにサンタが来てた!』子供は寝ぼけまなこで、何が何やらわからないよね。優司がはっきり目を覚ますのを待つんだ。そして言う。『今、お父さんがおしっこに行ってた間にサンタさんが入って来てたんだよ。このプレゼントを置いて行ったんだ。』優司を起こす前に開けておいた窓を指差して、『お父さんが大きな声を出したからあわててこの窓から飛び出したんだよ』優司は聞くよね。『ほんとに?』『ほんとだよ!』と言いながら窓から外を見るんだ。子供と一緒にね。すると、窓枠に出ていたクギに赤い布の切れ端が引っかかっているんだ」
「それも前もって仕込んでおくわけね」
「そういうこと。その布を手に取って。『これって何だ?』と優司の目の前に差し出す。『サンタさんの服の切れ端かな?』と言ってくれればしめたものだね。『そうだ。きっとそうだよ。サンタさんめちゃくちゃあわてて出て行ったから、服をひっかけちゃったんだね』子供はその布切れを宝物にする。それからまたしばらくはサンタさんを信じるというわけ」隆司はコーヒーを飲みほして、ちょっと苦そうな顔をする。
優紀はカプチーノを長い間かき回しながらしばらく無言だった。
そして、スプーンを止めて。
「なんで子供の名前が優司なの?」
隆司は視線を窓の外へ向ける。
「これってさー、回りくどいプロポ-ズなわけ?」
隆司の顔はみるみる赤くなる。
「この正直者~!」と優紀は隆司のおでこを人差指で突っつく。
「子供がサンタさんを信じなくなる頃には、弟か妹が出来てるわね」と優紀。
「え?」
「子供が二人で、片方がもうサンタさんを信じなくなっている場合の作戦を考えよ。その出来次第でプロポーズを受けるかどうか判断します」と優紀は満面の笑みを浮かべた。

窓の外、真っ暗な空の上からは何やら白い物が落ち始めたようだった。



              おわり



クリスマスシーズンなので、たまにはほのぼのした物もいいかなと思って書きました。
スキンも期間限定クリスマスバージョンです(笑)。

こちらの企画に参加させていただいています→「2010年クリスマス競作ブログ」


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by marinegumi | 2010-12-23 22:38 | 掌編小説(新作) | Comments(12)

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夏休みが終わった
僕らのクラスに 転校生が一人いた
そして僕らは まだまだ長い子供時代を過ごしていた


5年3組の新学期の一日目は、席替えから始まった。
そう、その時の席替えの様子はいまでもはっきり記憶に残っている。
小学校生活5年目で、初めて男の先生が担任になり、少々緊張して過ごした1学期が終わった。
そして十分に先生の気心も知れた頃に始まった2学期だった。
体育館で全校生徒の始業式が終り、教室に入るなり優木先生はこう切り出した。
「はい、それではいつものように席替えをしますが、2学期の席替えについては先生からひとつ提案があります」
いつもと様子が違うぞと言うことで、教室が少しざわめく。
「今までは机を一つずつ置いて、みんなバラバラに座っていたんだけれど、2学期は机を二つくっつけて並べ、二人並んで座る事にしようと思います。しかも‥」
そう言って、先生は一瞬微妙な笑顔になった。
「男子と女子が並んで座るようにします」
教室のあちこちから「ええ~!?」という声が上がった。
「なんでだよう~」と、一人の男子生徒。
「1学期の君たちの様子を見ていて、どうもこのクラスは男子と女子の仲が悪いように思ったので、あえてそう言う事を考えました」
言いながら先生は黒板に二つずつ並べた机の図を描いて行った。
それに番号を打つと、段ボールの箱に穴を開けて作った抽選箱を取り出した。
「さ、これを出席番号順に引いて行きなさい」
「先生ったら、手回し良すぎだよ」と一人の女子が言うと、教室に笑いが起こった。

みんな順番に番号を引きながら席が決まって行った。
島谷君は、隣に座ることになった女子の顔を見て。
「お、お前とかよー」と、大声を上げた。
相手の森さんは、大喜びだった。
「よろしくねー」
お世辞にもかわいいとは言いにくく、よくしゃべるので、男子からは少しウザく思われている女の子だった。
「替ってくれよー」と僕に言う。
「駄目だよそんなの」
教室のあちこちで、そんな風景がいくつも見られた。
僕はそれが面白くて、彼らの様子を他人事のように観察していた。
その時、君はいつの間にか僕の後ろに立っていた。
気配を感じて振り向く。
「よろしくね」と、転校生の藤木亜里沙は無表情で言った。
その声を聞いた僕は一度も抱いた事のない感情に一瞬にして囚われていた。
転校生として先生に紹介された時には、ただお辞儀をしただけだったので、声を聞くのは初めてだった。
他の女子たちと違って、なんとなく清潔そうで、かわいらしいなと思うぐらいで、特に気持ちが動く事はなかったが、その声を聞いたとたんに彼女に魅せられているのに気が付いてしまった。
声だけに魅せられたというのではなく、声を聞いたことで、彼女のイメージが完成したと言う事だと思う。
その転校生の藤木亜里沙が僕の隣に座ることになったのだ。
僕の左側に。

優木先生はチョークを3色使い、黒板に大きく「新学期だがんばろう!!」と書いて、新学期の心構えについての話をしていた。
「わたしね、転校して来て隣に座った子の名前が「りくふ」だなんてびっくりしちゃった」
と亜里沙はいきなりそう言いだした。
机に両肘をついて両手の平であごを支えている。
「な、なんでだよ?」あまりの意外さに本気で驚いていた。
「だってさ、だれにも読めないじゃん。数字の「六」に音符の「符」で「り・く・ふ」だなんてさ、読めないわよ~。名字が思いっきり変ってる割に名前の方は「智之」って平凡だしね」
亜里沙は黒板の方を見たまま、続ける。
「間違ってもわたし、あんたとは結婚しないわね。だって名字が「六符」じゃ、いやだもん。生きていけないわ」
「そ、そこまで言うのか?!万が一そんな事があっても、こっちだってお断りだよ!」
そう言った途端、半ズボンから出ている左足のももに激痛が走った。
亜里沙が指でつねったのだ。
「痛!」と、思わず声が出てしまう。
「こら!ろ‥りくふ!うるさいぞ」と優木先生。
亜里沙は吹き出してしまった。
「ほら、先生だってあんたの名前、かんだわよ。クククク ‥」と妙な笑い方をした。
それ以上何にも言えなかった。

あくる日から授業が始まった。
亜里沙はすぐに仲の良い友達ができたようで、いつも4~5人の女子たちの中にいる。
先生が入ってくると、そこから抜け出して来て僕の隣へ座る。
「はい、26ページを開いて」と優木先生は国語の教科書を高く掲げる。
ページを開き、勝手に閉じないように折り目を付けていると、亜里沙が椅子を僕の方に寄せて体を近づけて来た。
「な、なんだよ?」僕は一瞬うろたえていた。
「教科書見せてね」と、亜里沙はいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「まだこの学校の教科書もらってないんだ」
彼女の髪の毛からは、とてもいい香りがした。
胸がキュンとなった。
そして自分でも驚いたのだが、思ってもいない事を口にしていた。
「くっせーなお前、頭に何付けてるんだよ」
亜里沙はあらかさまに怒りの表情を作った。
そして僕に顔を向けたまま、机の下で、また思いっきり足をつねったのだった。
それはとびっきり痛かった。

何週間かが過ぎた。
登校時。
学校の門を入って校舎に向かって歩いていた時、、後ろから誰かが駈けて来る足音が聞こえた。
ランドセルの中の物が音を立てていた。
「うわばき~」と言う声が聞こえたと思うと、「パンチ!」と言いながら上履きの袋で僕の後ろ頭を叩いて行ったのは亜里沙だった。
僕たちは毎日のようにそんな他愛のない、喧嘩と言えないような小さな喧嘩をするようになっていた。
「なんだよもう‥」亜里沙を見送りながら、頭をなでなでため息をついた。
ふと見ると、校庭にハンカチが落ちていた。
拾い上げて見ると、藤木亜里沙の名前があった。
「見ろ、余計な事するから落っことすんだよ」
そのハンカチはとてもいい香りがした。

今思い出しても、どうして毎日そんなに喧嘩の原因があったのか不思議だった。
初めの頃の喧嘩の原因で、一つ覚えているのは名前の事だった。
「六符」という名前を嫌われた事を根に持っていた僕が、亜里沙の名前の事でからかったのだ。
「藤木亜里沙ってさー、不思議の国のアリスぱくってない?」
それだけで、授業時間中ずっと攻撃を受けるには十分だった。
毎日必ず何かの原因で授業中に小さな声で言い争いになり、つい大きな声を出してしまい、先生に注意される。
そして、声を出さない小競り合いへと発展していくのだった。
僕はもっと亜里沙と仲良くしたかった。
その頃には、はっきりと彼女の事が好きなんだと分かっていた。
ある日の休み時間に喧嘩をした時に亜里沙が僕の指を噛んだ事があった。
そんなに痛くはなかったが、歯形と唾液がついた指を長い間見つめていた。
僕はその指を自分の口に入れたい誘惑を抑え続けていたのだ。
そんな誘惑に捕らわれている自分を不審に思いながら、唾液が乾いてしまうまで見ていた。

授業中の、言葉でのいざこざの後の声を出さない小競り合いと言うのは、先生に見えないように机の下で足をつねる攻撃の事だ。
亜里沙は手加減せずにつねって来るので、僕は自分の足を手で庇う。
しかし当然、手で足全体を庇う事は出来ない。
やめてほしいという思いで、亜里沙の足を僕もつねり返す。
彼女のスカートから出ている足に触れるまでは、かなり時間がかかったと思う。
女の子の足をつねる、という以前に触れる事さえためらわれていたのだ。
でも、一度つねり合いになってしまうと、それが当たり前になった。
もちろん先生に気づかれる事もあり、何度も注意をされる。
それで彼女もおとなしくしているだろうと思っているとまた急につねられる。
これ以上先生の目に止まるとまずいと思って亜里沙の手をつかんで押さえつけたりもした。
しかし、しばらくそのままにして、ころ合いを見計らって手を離すと、また攻撃が始まるのだ。
そしてまた手をつかんで、椅子の座面に彼女の手を押さえつけたままで授業を受けるのだった。

そのスタイルが毎日のお決まりになった。
足のつねり合いが始まると僕は彼女の手を握る。
最初のころは押さえつける感じだったが、次第に形が変わって行き、手をつなぐようにして授業を受けた。
机の下で亜里沙と手をつないだまま授業を受けながら、ふと彼女を見るとノートを取っていた。
左手で鉛筆を走らせている。
左利きだったのかと思いながら自分も黒板に目をやり鉛筆を走らせる。
でも神経は左手に集中していた。
彼女とつないでいる手の感触を体中の全神経で意識していたのだ。
手を離す事が出来なかった。
離せばまた足への攻撃が始まるのを恐れたと言うのは、もう自分への言い訳だった。
彼女にずっと触れていたかったのだ。
僕の手は冷たく、彼女の右手は温かかった。
つないでいるうちに彼女の手の温かさで僕の手も温かくなる。
そしてだんだんに汗ばんでくる。
お互いの手がじっとりと汗ばむまで手をつなぎ続けているのを亜里沙はどう思っていたのだろう。
やがてチャイムが鳴り、委員長の「起立!」の声とともに授業が終わると二人の手は離れ、汗ばんでいた手はすうっと涼しくなる。
仲の良い女の子たちと一緒に運動場へ出ていく彼女を見送りながら、なんだか奪われたような気持がしていた。

家で一人で風呂に入っていた時、「ともくん入るわよ」と言いながら母親が入って来た。
洗い場で体を洗っていた僕が、少しうろたえたのを母親は見逃さなかった。
「どうしたの?最近いつも一人で風呂に入ってるよね。おちんちんに毛でも生えたの?」
「ちがうよ!生えてなんかいないよ」と言いながら彼女に背を向けた。
見られたくないものがあったのだ。
しかし彼女は目聡かった。
「あら、その足どうしたの?」
そうなのだ、足は亜里沙につねられた所が何か所も青いあざになっていた。
しばらくすれば消えるのだが、また新しいあざが出来てしまう。
「ちょっと見せなさい。その足はどうしたの?」
「どうもしないよ」
「そんなわけないじゃない。ちょっとひどいわよ」急にまじめな顔になって。「ともくん、まさかいじめられてるんじゃないでしょうね」と声を落として聞いた。
しょうがなく僕は亜里沙との事を話した。
「隣の女の子と足のつねり合い?」と、あきれた表情をした。
僕は顔が赤くなるのが解った。
「ははーん。その女の子かわいいんだ?」
「べつに‥」
「ともくんはその女の子が好きなんだ?」
「ちがうよ!」手をつないだまま授業を受けていると言う所までは話さなかった。

それからもしばらくつねり合いは続いた。
亜里沙から仕掛けてこない時は僕の方からいざこざの原因を作ることもあった。
手をつなぐための理由がほしかったのだ。
ある日、授業が終わり立ち上がった時に亜里沙がノートを落とした。
それを僕が拾ったのだが、渡す時に見ると思いっきり字が下手なのに気がついた。
「なんだお前。めちゃくちゃ字が汚いんだな」
亜里沙はノートをひったくった。
また何かの攻撃があるものと思い、身構えていると彼女は椅子に座ってノートを広げた。
そして左手で自分の名前を書いた。
小学校1年生なみの、へたくそな藤木亜里沙という文字。
そしてそこに並べて、右手でも書いた。
その字はとてもきれいだった。
僕の字なんかと比べようもないきれいな文字だったのだ。
「どうして?」
僕が聞くといたずらっぽい笑みを浮かべて彼女は言った。
「だってさ、右手は授業の間、ともくんとつなぎっぱなしだもんね」
そう言うと勢いよく立ちあがり、女子たちの待っている教室の後ろの方へ行ってしまった。

その日の放課後、帰り道で亜里沙を呼び止めた。
他の生徒たちのいない運動場の隅っこの大きな楡の木の下までやって来た。
「おまえさあ。足にあざが出来てない?」
僕がそう言うと、亜里沙はスカートを少したくし上げてももを見せた。
そこには僕よりひどいあざが付いていたのだ。
当たり前だと思った。
僕なんかよりずっと柔らかい肌をしているんだから。
「亜里沙、おまえ‥」その時初めて彼女の名前を呼んでいた。
「おまえ、お母さんに見つからなかったのか?そのあざ」
「ともくん見つかったの?」
「うん。お母さんにお風呂場で」と言って、しまったと思った。
母親と一緒に風呂に入っているのを知られてしまったと。
「お母さんとお風呂、入ってるんだ?いいなぁ」亜里沙はそう言うと楡の木を見上げた。
馬鹿にされると思っていたので、ちょっと意外だった。
「もう足のつねり合い、やめようね」そう言いながら亜里沙は視線を降ろし、僕に向かってほほ笑んだ。

小さな、喧嘩とまでは言えない小競り合いは続いたが、授業中はほとんどしなくなった。
でも、どちらからともなく手をつなぎ合った。
手をつないだままで、授業を受けた。
亜里沙は左手で鉛筆を持ってノートをとり続け、次第に文字もまともに書けるようになって行った。

授業の間、手をつないだままでいるとだんだん温かくなり、二人の手が汗ばんでくる。
その手に意識を集中する。
授業も上の空で、亜里沙とつながっているのを感じている。
やがて授業が終わると二人の手は離れ、汗ばんでいた手のひらがすうっと寒くなるのがちょっと悲しかった。

長く感じるはずの子供の頃の時間。
でも、僕と亜里沙との時間だけは、なぜかとても速く流れて行った。
気が付くと、何カ月も過ぎていた。

街は落ち葉の季節だった。
道路と言う道路に落ち葉が降りしきり、あちこちに落ち葉だまりが出来ている。
少し風が強い日は、さらに激しく落ち葉が散り、街中を落ち葉の吹雪が荒れ狂う。
そんな季節のある朝、僕が校門を入って少し歩いた時に、後ろから走ってくる足音が聞こえた。
ランドセルの中の物が揺れて音をたてていた。
また「上履きパンチ」が来るものと思い、首をすくめていると足音はピタッと止まった。
振り返ると亜里沙が悲しそうな表情で立っていた。
亜里沙は僕の手をつかんで歩きだした。
僕はうろたえた。
他の生徒たちがいる前では手をつないだ事はなかったのだ。
僕たちを見てひそひそ話をする級友たちもいた。
彼女は人の目を全く気にする事もなく、強く僕の手を握っていた。
「引越しが決まったの」と歩きながら亜里沙が言った。
「え?」と言ったまま、僕は何も考えられなかった。
「引越しすることが決まったんだよ。また転校するんだ」

引越しの当日。
僕は初めて亜里沙の家の前に来ていた。
荷物は先に引越し先に運び出されていたからか、がらんとした印象の大きな家だった。
この家なら前から空き家になっていた事は知っていた。
そこに亜里沙が引っ越してきたという事さえ知らなかったなんて。
そして、その時に亜里沙がお父さんと二人暮らしだった事を初めて知った。
そうなのだ。
改めて僕は亜里沙の事を何も知らなかった事に今さら気が付いていた。
僕がお母さんとお風呂に入っている事をうらやましく思った亜里沙。
そう言う事だったんだと最後の日に解るなんて。
もっともっと亜里沙の事をいっぱい知りたかった。
なぜ学校以外で彼女と会おうとしなかったのかと後悔をした。
学校での授業のあの濃密な時間があったので、それで満足してしまっていたのかもしれない。
家の前には大きな乗用車がガレージから出されて止まっていた。
最後まで残っていた荷物が後ろの座席にわずかに積まれ、いつでも出発できる状態だった。
「また会えるよね」亜里沙はそう言って僕の両手を握り、二人は見つめ合った。
「うん」それしか言えない自分がもどかしかった。
「手紙を書くからね」
「うん」
「休みになると遊びに来るからね」
「うん」
しばらく見つめあっていたが、そのままゆっくり亜里沙は顔を近づけて来た。
唇が触れあった。
数秒間だったと思う。
でもその数秒間は永遠の時間のような気がした。
また百分の一秒ほどの、とてもわずかな時間のような気もした。
「こら!お前ら何やってるんだ!」
初めて見る亜里沙の父親だった。
想像していたのとは違う印象を持った。
どう違うのかと言われても答えられないが、髪の毛が短く、黒い革ジャンパーを着て、どこかガサツな印象だった。
「このませガキが、いっちょ前にキスシーンかよ!」
亜里沙の表情がにわかに険しくなり、意外な言葉が飛び出した。
「うるさい!あんたなんかに言われたくないわよ!」父親は驚いた顔で、少したじろいでいた。
「あんたのせいでこんな生活しなくちゃなんないんだからね!」
亜里沙と父親の関係がどういう物なのか想像もつかずに言葉も出ずに立ち尽くしていた。
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気が付くと何度も別れの言葉を残して、亜里沙は父親の運転する車に乗り込んでいた。
車が動き出した時、気の利いた言葉の一つもかけてあげられなかった自分を悔しく思っていた。
街にあふれる落ち葉を巻き上げ、まき散らし、車はすぐにあっけなく見えなくなってしまった。
僕はその時、後にも先にも感じた事のない絶望的な喪失感を感じていた。
亜里沙を失っただけではなく、もともと自分が持っていた何かまで一緒に失ってしまったような気がしていたのだった。
ポケットに手を入れる。
あの日、亜里沙の「上履きパンチ」を食らった時に彼女が落としたハンカチだった。
返そう返そうと思いながら返しそびれていたのだ。
こんな日が来る事をどこか頭の隅で想像していたので、返す事をためらう気持ちがあったのかも知れない。
それはまだわずかに亜里沙の香りがした。
やがてその香りもいつか消えてしまうのかと思うと、更に悲しくなった。

その別れの後の学校生活はただただ長く感じた。
僕だけが二つくっついた机に一人ぼっちで座って授業を受けた。
授業を受けながら足の上に置いていた左手を外側へ無意識に降ろす。
ただ椅子の冷たい表面に触るだけだった。
そこにいつもは亜里沙の温かい右手があったのだ。
左手がどうしようもなく寒く感じて、また足の上に戻す。
そんな事を一日に何度も繰り返していた。

ある日の休み時間、クラス一の調子者の田村君が前の席の椅子に座り、後ろを向いて僕に話しかけた。
「寂しくなったよな六符。たぶんさー、藤木ってお前のこと好きだったんじゃないの?」
無意識に拳が出ていた。
いけないと思い、殴る寸前でどうにか止まった。
僕の表情にただならない物を感じたのか、田村君は何も言わず席を立った。




それから何年も何年も、長く感じる時が過ぎ、僕も大人になった。
そして何度も恋をして、何度も恋を失った。
でも、亜里沙を失った時ほどの苦しい恋は一度もなかった。
子供同士の恋は、お互いがどんなに好きでも最後まで完成させる事が出来ない。
セックスの事をうすうす知ってはいても、それによってお互いの愛を確かめると言う事が、まだまだ理解出来なかったのだろう。
愛情を完成させる事が出来ないままの子供同士の恋はそれだけに苦しいのだと思う。

初めて出来た恋人とセックスをするたびに、いや、その後の誰との時でも同じで、なぜか必ず亜里沙との事を思い出した。
二人が手をつなぎ合って受けた教室のあの授業の時間の事をだ。
最初はなぜなのかが解らなかったが、やがて僕は理解していた。

授業の間、手をつないだままでいると僕の冷たい手に亜里沙の手のぬくもりが伝わり、だんだん温かくなり、二人の手が汗ばんでくる。
その手に意識を集中する。
授業も上の空で、亜里沙とつながっているのを全神経で感じている。
しっかりとつないだままの手は、やがてじっとりと汗で湿ってくる。
やがて授業が終わると二人の手は離れ、汗ばんでいた手のひらがすうっと寒くなるのがちょっと悲しかった。

そうなのだ。
その時間は大人になってからの、その行為の時間にとてもよく似ていたという事に気が付いた。
あの時間は子供だった二人にとって、セックスをしているのに一番近い時間だったのだ。

今、僕は何度目かの恋が終わったばかりだった。
なかなか長続きする恋人は出来なかった。
恋が終わるたびに亜里沙との事を考えてしまう僕がいる。
あのまま亜里沙が転校せずに二人して進級していたら。
同じ中学校へ行っていたら。
せめて中学生にまでなっていれば、決してぼくは亜里沙を離しはしなかっただろうと、強く思うのだった。




                  おわり




ちょっと気恥ずかしいものを書いてしまったような気がします。
自分の体験が入っているようないないような‥‥入っています。
もう胸をきゅんきゅんさせながら書き終わりましたよ。
でもこういうのって人に思いが伝わるのかな?

例によって、校正もそこそこにとりあえずアップします。
時々読み直して、おかしな所を修正しますね。

作品中の2枚の写真はそれぞれ下記のブログから無断で(こら!)お借りしました。
清須写真ガイド
rabbitのきまぐれ日記


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by marinegumi | 2010-12-16 22:00 | 短編小説(新作) | Comments(2)

金曜日に「FLY」の話です。
つまりハエですね。
本当にたった今あったことですよ。

寒くなってきたので、1週間ほど前から寝る時は靴下をはいています。
お風呂上がりに靴下をはき替えるんですが、はき替えて5分ほどのち。
寝る前にパソコンの前に座って、文章を打ったり本を読んだりする時の飲み物を作っていると、右足の小指あたりに違和感が。
最初は、足がしびれたか、けいれんでも起こしたかと思ったのですが、2度3度、なんか虫でも入っているような感触。
すぐに靴下を脱いで裏返すと、1匹のハエがポトリ。
床の上を少し歩いて、止まりました。
なんでハエが?
と思いましたが、たぶんこの寒さで弱っていて靴下をはくときに紛れ込んだのかなと思って、あとでティッシュで始末しようと思って、飲み物を作り続けているといきなり、やつが離陸。
完全に弱っていると思っていたハエが飛びました。
寒さで弱って、さらに靴下に挟まれてダメージを受けていると思っていたのに、まさかの復活でした。
なんで?
弱っているハエならともかく、十分飛べるほど元気なハエが、靴下はいている時に中に入るなんて、ちょっと考えられないよねー
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by marinegumi | 2010-12-10 23:52 | わたくし事 | Comments(0)

歌を作った (7枚)

突然歌を作りたくなった。

ブラッドベリの初期の小説に、こういう物語がある。
詩人がある日、一編の詩を書く。
自然の美しい風景を言葉によって紙にインクで書きつけると、その詩があまりに完璧な作品だったので、インクが乾くと同時にその自然の風景は紙の中に閉じ込められてしまう。
そして、現実の景色からはその美しい風景が失われる。
「詩」と言う短編だ。

その小説を読んだ時、僕にも同じような事が出来るような気がした。
いや、「同じよう」ではなく、全く反対の事だったが。

音楽が昔から好きだった。
自分でギターを弾いてヒット曲を歌うのが好きだった。
ギターを弾く事も好きで、趣味で弾いているにしては我ながら、かなりうまい方だと思っている。
譜面まで読めるようになり、初めての曲でも譜面さえあれば弾き語りができるまでになっていた。
そして「詩」と言うその物語を読んでから、自分で曲を作ってみたくなったのだった。

自然の風景を歌にする。
しかし僕が歌にするのは現実にある風景ではなく、あくまで頭の中だけで想像した風景なのだ。
すると、その歌と共にその風景が世界のどこかに出現する。
何もない所に、美しい景色が突然に現れて、たまたまそこに居合わせた人を驚かすのだ。
強くそう思いながら僕はいろんな歌を作った。
本当にそう信じて僕はたくさんの歌を作った。
紙に書きつけられた譜面のままでは、その風景は紙の中に閉じ込められている。
僕がギターを弾きながら声に出してその歌を歌う時、その歌われた情景が世界のどこかに出現しているのだ。

だけど、僕が歌い終わると同時に、その美しい風景は失われる。
それは歌と言う物の宿命だ。
世界から、その美しい風景は失われ、失われた風景は、譜面の中に閉じ込められてしまうのだった。
その譜面の中の風景は僕によって歌われない限りどこにも出現はしない。
実際にその風景が出現するのを自分が目にはしなくとも、それはどうしようもないほどの確信だった。
a0152009_155343.jpg

そんなある日、ある一人の少女の歌を作った。
それまでに作ったどの歌よりもそれは素晴らしい出来の歌だった。
黒髪を風になびかせて歩く少女。
大きなまっすぐな瞳には世界のあらゆる美しいものが映る。
形の良い唇から出る声は、いつまでも聞いていたい歌にも似ている。
少女が走ると、彼女が作ったかのような心地よい風が街に吹き渡る。
そう、その歌を僕が歌う時、彼女もまたこの世界のどこかに現れている。
どこかの若者が彼女を見つけると一目で恋に落ちてしまっている事だろう。
でも、僕が歌い終わると少女は若者の前からふっと姿を消すのだ。

僕はその歌が特に気に入った。
毎日のように歌い続けた。
他の歌を作りながらも、その少女の歌だけは毎日のように歌った。

ある雨の日の事。
少女の歌を歌っている僕の前にその歌の少女が現れた。
僕の部屋の窓の向こうに、彼女が僕の家へと近づいて来るのが見えた。
そして、何も言わずドアを開け、風が吹き込むように彼女は僕の前に立っていた。
僕は歌を歌い続けている。
僕は歌いながら、少女に一瞬で恋をしてしまっていた。
歌が終わると同時に、まだ弾き終わって弦が震えて音が出ているままのギターを立てかけて、彼女に手を差し伸べた。
彼女を抱きしめようと思ったのだ。
少女は近づいてくる。
でも、愛らしい唇は微笑んではいなかった。
それどころか、とても悲しげな表情をしていたのだ。
少女は後ろに隠し持っていたナイフを、彼女の全体重をかけて僕の左胸に押し込んだ。

僕はその痛みと、流れ出る血の温かさを感じながら、全てを理解していた。
彼女は苦しんでいたのだ。
僕が少女の歌を歌うと、彼女はこの世に生まれ、歌い終わると同時に「死」を経験する。
次の日に僕が歌うと、また生まれては死んでゆく。
そしてまた。
少女はその繰り返しに苦しみ続けていたんだと思った。
彼女の悲しげな表情はそのためだったんだと、薄れていく意識の中で理解していた。

ギターの弦が震えるのをやめると同時に彼女は安らかな微笑みを浮かべながら霧のように消えて行った。
それを見届けた僕の目も、もうそれ以上開けてはいられなかった。




                 おわり




仕事が例年になく忙しくなって、久々の新作です。
久々と言っても、これまでの更新のスピードが速すぎただけなんでしょうけどね。
趣味で書いている小説なんだから、もっとゆったり書いていきたいと思います。

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by marinegumi | 2010-12-01 01:59 | 掌編小説(新作) | Comments(3)