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海野久実が掌編小説やら短編小説を書いています。タイトルの後に原稿用紙換算の(枚数)があるのが小説です。


by marinegumi
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<   2012年 04月 ( 11 )   > この月の画像一覧

海 (6枚)

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目を覚ますと、雨が降っていた。
ただでさえ憂鬱な月曜日が、さらに灰色の気分になった。
それでも体はしぶしぶでも起き上がり、出かける準備を始めていた。
味のしないトーストに、今日は思い切り蜂蜜を塗りたくった。
ふと、さっきまで見ていた夢の残渣なのか、蜂蜜の味に混じって潮の香りがした。

私は電車に乗っていても、あの潮の香りが気になった。
きっと海の夢でも見ていたのだと思う。
湿った生温かい空気の淀んだ電車はそれだけで気分が滅入る。
髪の毛はぺたんこになり、肌がじっとり湿っている。
そんな電車にしばらく揺られ、七つ目の駅に着く。
会社のある駅まではまだ遠い。
この駅で降りると、海まで歩いていける距離なんだなと思う。

ドアが閉まるとわたしは、ホームに立っている自分に気がついた。
その駅で降りる見知らぬ人々の流れに乗って改札口を通り抜けた。
そして、海を目指して歩き始めた。

傘をさして雨の中を歩いていても、海に向かっているんだと思うと気分は良かった。
駅から敷石の坂道を下りながら、わたしは題名のわからない曲をハミングしていた。
たぶん海の事を歌った歌だと思う。

電車が駅に着くと、私は人並みに呑まれるように歩くともなく歩いた。
体はまるで幽霊のように運ばれて行き、一つの大きなビルを目指していた。
もう目をつぶっていてもたぶんたどり着けるはずの場所。

坂道をどんどんなかば走るように降りて行く。
雨は小雨にになり、空には少しだけ青空がのぞいていた。
わたしが毎日乗るのとは違う鉄道の踏切を、違った色の電車が通り過ぎて行った。
ぎっしりと憂鬱たちを詰め込んで。

エレベーターに乗り、たくさんの無表情な同僚たちと一緒に私の体は運ばれて行く。

踏切を渡ってしばらく歩くと国道があり、国道沿いの長い長い防波堤が見えてくる。
その防波堤沿いにさらに歩いて行く。
歩きながら見下ろすと、無数のテトラポットが波に洗われている。
海の色はまだまだ灰色だった。

自分の勤める会社のオフィスが何階にあるのか、ぼんやり考えても判らなかった。
でもちゃんと無意識でもたどり着いてしまう、そんな場所だった。

国道から離れ、歩いて行くうちに家もまばらになっていた。
雨にぬれた木々の葉がきらきらと輝いている。
空が明るくなっているのに気がついて傘を傾けると、雨はやみ、青空が大きくなっている。
舗装されていない緩やかな坂道の向こうには砂浜が見えていた。
そしてその砂浜の向こうには青空の色を溶け込ませた青い海が広がっていた。


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私はタイムカードを押し、自分の机に座り、金曜日の残業で散らかった机の上を整理した。
電卓や筆記用具は左側に、書類を揃えて右側に、バッグは机の横にかけ、パソコンを立ち上げる。

わたしは砂浜へ降りると裸足になって歩いた。
砂は冷たかったけれど、気持ちがよかった。
波の音だけが聞こえた。
青い海は遠く、まだ雨の後の湿った空気のためにかすんでいて、水平線と空の境目がわからなかった。
今朝、目覚めるまで見ていた夢はこの海の夢だったんだろうか。

パソコンが立ち上がると、デスクトップは海の風景だった。
ネットで拾った、どことも判らない海の壁紙。
今朝、目覚めるまで見ていた夢はこの海の夢だったんだろうか。

私は何の感情もなくその海の風景を見ていた。
動かないはずのその海の写真の砂浜を歩いている人がいた。
それは広い砂浜に、ぽつんとほんとに小さく見えていたけれど、確かに歩いているのだ。
そしてその人の着ている服には見覚えがあった。
私がさっき、制服に着替えるまで着ていた同じワンピース…

パソコンのデスクトップの海の砂浜から、足跡だけを残して、その人が消えているのに気がつく。
ポン、と肩をたたかれる。
同僚の女の子だ。
今日も元気そうね、と言いながら笑顔で指をひらひらさせて自分の席に座る。
元気そう?
そう言えばそうだった。
なぜかとても気分がよかった。
雨の月曜日だと言うのに。

ふと、頬にかかる髪の毛から潮の香りがした。



おわり



この作品は、Tome館長さんのブログ、「Tome文芸館」の作品「野宿」の中の文章「海を目指して歩き始めた」が素敵だなーと思って、書いたものです。
その、たった一言から生まれたお話です。
「積もらない雪」と言う作品も、雫石鉄也さんの作品の書き出しの一言「雪が降ってきた」から生まれたものです。
時々そうやって、ある言葉にピンと来てしまって作品にしたくなるんですよね。

最近は仕事中の暇な時間に書く事が多かったのですが、これは久々に家に帰ってから書きましたね。
タイトルも、ごくシンプルにと言うのは最近の好みです。



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by marinegumi | 2012-04-30 01:31 | 掌編小説(新作) | Comments(8)

オレンジ (2枚)

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夕暮れ時
道路の真ん中にオレンジがひとつ落ちていた
普段なら交通量の多い時間帯なのに車は一台も見えなかった
歩道にいた僕はそのオレンジの所まで歩いた
それはつやつやとした美しい本物のオレンジだった
それを拾い上げた方がいいのか そのまま置き去りにした方がいいのか
僕は少しのあいだ迷った
なぜかそれはただのオレンジではないような気がしたからだ

僕はまだ迷っていた
車は一台も通らず 人の姿も見えない
夕日もさっきから空の同じ所でじりじりしていた

僕はオレンジを拾い上げた
それと同時に道路はたくさんの車に埋め尽くされた
そしてあらゆる騒音や人の声 風の音 鳥の鳴き声が聞こえた
そしてブレーキの音

オレンジはそこに置かれた時に 世界の時間を止めてしまったのだ
その場所が特別な場所で そのオレンジも特別なオレンジで
何億分の1の確率でそれは起きてしまった
僕がオレンジを拾い上げなければ世界は止まったままだったんだ
そして僕が生まれて来たのも このオレンジを拾い上げるためだった
世界に時間を取り戻すためだったんだと言う事がわかった

僕はオレンジを持ったまま 大きなブレーキ音を立てて迫って来る車の前にいた



おわり



道路の真ん中にオレンジがぽつんと一つ置かれている。
そういう光景をさっき実際に見たわけですね。
たぶん買い物帰りのおばちゃんの自転車の後ろかごから落ちたとかそんなことなんでしょうけど。
なんか面白かったので、即、作品に仕上げました。
画像は合成で、実際には写真は撮りませんでした。
だって、車が危ないでしょ。


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by marinegumi | 2012-04-28 16:39 | 掌編小説(新作) | Comments(8)
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「由紀、食事中にピコピコうるさいんだよ」
家族4人で夕食のテーブルを囲んでいる時に、お父さんが言い出した。私はケータイで友達にメールをしていたのだ。
「そうですよ、お父さん。食事中にメールするのは行儀が悪いでしょ。お父さんからも言ってやってください」
と、お母さんも言う。
「その音はどうにかならないのか?テレビを見るのに気が散ってしょうがない」
「そうなの。じゃあ音が出ないようにしとけばいいのね」と私。
「お父さん!そこじゃないでしょ?私はメールすること自体がお行儀悪いと言ってるんですから」
そうお母さんが言うと、お父さんはNHKのニュースをやっているテレビから目を離さずに答えた。
「え?いんじゃない。俺だってテレビ見てるし」
「それじゃ音が出ないように設定するね」
わたしは、キーのプッシュ音を「なし」に設定してメールの続きを打ち始め、お母さんは不満そうに鼻でため息をついた。
弟の和也はそんなわたしたちのやり取りを面白そうににこにこしながら見ている。
「ご、め、ん、そ、ん、な、こ、と、な、い、か、ら…」
気が付くと、和也が横から画面をのぞきこんで、メールを声に出して読んでいた。
「何やってんのよあんた!」
私は軽く、肘で和也のあごを下からこずいた。
「痛いよ!おねえちゃん」
「まったくもう…」
「あのメールさー、カレシに送るんじゃね?」
「違うわよ!」
私はケータイをテーブルの下にして画面を見ないで打ち続けた。中学生になってケータイを買ってもらい、メールを打ち始めてもう三年。スピードはめちゃ遅くなるけども、ケータイでブラインドタッチが出来るようになっていた。ただ、正しく変換されているかどうかは画面で確かめないといけないけれど、ひらがなのままなら確実に打てるようになっていた。

ある日曜日の事だった。
お父さんはゴルフ。お母さんは和也の小学校で何やら行事があるようで一緒に出かけていて私は一人だった。
私は二階の自分の部屋で、机の上に足を置いて椅子に座っていた。一人の解放感で、そんな思いっきり行儀の悪い格好で「三毛猫ホームズ」を読んでいた。
のどが渇き、コーヒーでも淹れに台所へ降りようと立ち上がった時、窓から見下ろすお隣の吉川さんちの庭に人がいるのが見えた。ジーンズに、上は黒っぽいブルゾンを着てニット帽をかぶり、サングラスをかけ口ひげをはやした男の人だ。吉川さんの家族ではない。きょろきょろとあたりを見回して、何となく様子がおかしかった。
そして、その人が上を見上げた時、私と目が合った。その男の人は無表情のまま私を見て数秒かたまり、慌てる様子も特に見せずに歩いて出て行ってしまった。
いったい誰だったんだろう。コソ泥みたいな感じではなく何か堂々としていた。

本を読むのにも飽いて、二時ごろに一階に降りた。
一人きりの遅い昼食をとり、そのままダイニングでテレビを見続けた。
午後四時を過ぎる頃、お母さんが小学校から帰って来るなり不安そうな表情で言った。
「お隣の吉川さん、何かあったのかしら?今、家の前にパトカーが止まってたわ」
和也を連れて入って来て「家から出ちゃダメよ」と二人に言うと、外へ出て行った。お隣の方が、何やら騒がしい。

しばらくして入って来たお母さんのか顔は青ざめていた。
「吉川さんのご主人が亡くなってらしたんですって」
そして、お母さんは私の耳元に、和也に聞こえないように言った。
「殺人事件らしいって」
私は、自分の部屋から見下ろしたあの男の事を思い出していた。
吉川さんちは塀が高く、道路からは庭に人がいても見えない。その人を見ているのはたぶん私だけと言う事だ。きっと警察が家にも聞きにくるに違いない。そうすると私は目撃者として、いろいろ聞かれるだろうと思った。
その男の顔や服装を思い返していた。吉川さんには悪いけれど、なにか探偵小説の登場人物にでもなった気がして、少しワクワクしている自分がいたのだ。

吉川さんの家の前にはおなじみの立ち入り禁止の黄色いテープが張られ、警察官や刑事らしい人、鑑識?みたいな人があわただしく出入りするのを私は時々自分の部屋から見下ろしていた。
若い刑事らしい人が、あの男の人が立っていた庭から私の方を見上げ、目が合ったりもした。

死体も運び出され、一応の調べが終わったらしいその日の夜遅く、目が合った刑事さんともう一人の歳をとった刑事さんが家に訪ねてきた。
「もうご存じとは思いますが、お隣のご主人がなくなりました。どうも強盗らしいのですが、何か気がついた事があればお聞きしたいのです」
歳を取った方の刑事さんがそう言うと、反対にお父さんが聞いた。
「強盗が入ったのは何時ごろなんですか?」
「吉川さんの家族の方がご主人を残して家を出たのが午前10時過ぎ。帰って来て死体を発見したのが午後3時半ごろなんですが、これはご主人の死亡推定時刻がわかればもっと狭められると思いますね」
「その時間帯はわたしたちは出かけていましたね」
と、お父さんは言いながらわたしの方を見た。
「おい由紀、お前は家にいたんだったよな」
そこでわたしは二階の窓から見た、吉川さんちの庭にいた男の話をした。
すると二人の刑事さんは身を乗り出して私の話に聞き入った。
「それは何時頃の事ですか?」
それを聞かれるだろうと思って、前もって男の服装や人相と一緒にそれも思い出しておいた事を言った。
本を読んでいる時に時計を見て、11時40分だったのが映像として記憶に残っていた。
それから少し本を読んで、コーヒーでも飲もうと思ったからお昼に5分ぐらい前のはずだ。
それを刑事さんは手帳にメモをした。
「さっきあなたと目が合いましたね。二階にいらしたでしょ?」
と、若い方の刑事さんが初めて口をきいた。結構イケメンだった。
「お隣の庭からお見かけした時はお嬢さん、小学生かと思ったんですが、こうやって近くで見ると、中学…1年生ぐらいですか?」
わたしはちょっとムッとして「高校1年です!」と言って若い刑事さんを睨んだ。
「この子はほんと、クラスで一番背が低いんですよね」
お父さんは笑いをこらえながら言った。
「そうですか、失礼しました。ただでさえ若く見えるのに、お隣の庭から離れて見ると、さらに幼く見えるもんですね。いやいや」
なにが「いやいや」なんだよーと思いながらお母さんを見るとやっぱり笑いをこらえていた。
「ここのお家はあれですね。ずいぶん窓が大きくとってある」
歳をとった方の刑事さんがそう言った。何を関係ない事を言うんだろうと、みんなが「?」となった。
「比較の問題ですね。窓が大きいので彼女が小さく見えちゃったと言う事でしょう」
そう言いながら若い刑事さんに目配せをした。
「それではこの辺で失礼します。なかなか有力な情報をありがとうございました。またもっと詳しい事をお聞きする必要が出てくるかもしれませんが、その時はよろしく」

それから何回か刑事さんたちはやって来て庭にいた男の詳しい人相や服装。背丈などを聞いた。顔はニット帽とサングラスで隠れていたし、ヒゲも恐らくつけヒゲかも知れなくて、あまり参考にならないんじゃないかとわたしは思った。


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1週間が過ぎた。
わたしは浮き浮きしていた。だって3年間使い続けた携帯をスマートフォンに買い替える許しが出たからだった。手続きの書類をお母さんに書いてもらい、近くのケータイショップに歩いて向かっている途中だった。
あるスーパーの駐車場横を歩いている時に1台の車がその駐車場に入って来た。車は、入ってすぐの駐車スペースに止まると一人の男の人がドアを開けて降りて来た。どうも足が不自由らしく車体につかまりながら後ろへ回ろうとしていた。車の後ろには電動車椅子が乗っているのが見えた。さらに車には車椅子の絵のステッカーが貼ってあった。
どうして身体障害者用の駐車場に止めないのか、何でこんなにスーパーの入り口から遠いところに止めるんだろうと、その時は頭の隅でちらっと思っただけだった。そもそも一番店の入り口から遠いところなのだ。そのため、ほとんど車は停まっていない。
その時、車止めにつまづき、男の人はその場に転んでしまった。
「ううう…」
と、うなりながら男の人は座り込んでいたが苦しそうに顔を上げると、わたしと目が合ってしまった。
「だいじょうぶですか?」
あたりを見回しても誰もいないので仕方なく声をかけた。
「ちょっと手を貸してください」
男の人は優しそうな声をしていた。年齢は50前後かなと思った。特に見覚えのある人ではない。
体を支えようと腕を抱えると、案外容易に男の人は立ち上がった。運転席まで手を添えて座らせてあげた。
「いやー、どうもありがとう。ちょっと悪い足をさらに痛めてしまったなこりゃ。これでは家に帰っても、車いすに乗れないな」
と、男の人は困った顔をした。
車は改造されていて、足を使わずに運転できる身体障害者用だった。
「お譲ちゃん、申し訳ないがわたしの家まで一緒に乗って行ってもらえませんか?家族の者が今いないので、家の駐車場で車椅子に乗る事さえ出来たら、あとは一人で出来るんですが」
少し考えてわたしは言った。
「いいですよ」

車が走り出すと男の人はたばこを吸い出した。窓は運転席側を開けていたので煙は車外へと流れてしまう。わたしはたばこの匂いが嫌いだったので、安心した。
「10分ほどで着くからね」
と男の人は言った。そしていろいろ私の事を聞いた。
「高校1年生なんだ?ずいぶんかわいらしい高校生ですねー、いやいや」と、誰かと同じような事を言う。
わたしは質問に答えながら男の人が運転する様子を興味深く見ていた。手だけで運転出来るその車が珍しかったからだ。
車はたっぷり20分ほど走り、気が付くと細い道に入り込み、あたりには木しか見えなかった。
「ごめん、ちょっと足が痛みだした」
男の人はそう言うと車を止めた。
車内はしんと静まった。男の人は窓を閉じるとため息をつく。
そしてたばこを大きく吸い込むと、ゆっくりと煙をはきだした。
たばこの煙は男の人の顔のまわりを漂う。それはまるでヒゲのような形で男の人の口のあたりでしばらくとどまった。
その時心臓がドキンと大きく打った。
すぐにその理由が解った。ヒゲだ。
この男の人にひげをつけると、あの吉川さんの庭にいたあの男とイメージが重なるのだ。
この人があの日の強盗?
最初はそんな事はあり得ないと、否定したい気持ちが大きかったけれど、だんだんにしぼんでしまった。
そしてすぐに確信になった。

どうしよう?あたりには誰もいない。わたしはドアの内側の取っ手をそっと引っ張ってみた。堅く、動かなかった。
いや、わたしが逃げ出さないようにロックしたと言うわけでもないだろう。ドアを閉じると自動でロックされるのかもしれない。まだわたしはこの男の人があの男ではないと信じたがっていた。
「まだ痛みますか?」
とわたしは精いっぱいの笑顔で聞いた。
「うーん、そうだな」
男は車を止めてから急に無口になっていた。
ひょっとしてあの日、吉川さんの庭にいた時、わたしと目が合ったあの時に、わたしをまだ小学生ぐらいだと思ったのかもしれない。あの若い刑事さんと同じように。
小学生だから大した証言も出来ないだろうとそのまま見逃したけれど、心配になった男はわたしを見張っていたのかもしれない。
どんどん想像は膨らんで行った。
そして身体障害者のふりをして、私を車に乗せ、高校生だと言う事がわかった。さて、どうしたものかと男は今、考えているのではないだろうか。
このまま解放する方がいいのか、殺した方がいいのか。
わたしは背筋に冷たい物が走るのを感じた。
下手に動けないと思った。車から逃げ出そうとすればたちまちつかまる。ここはせいぜい馬鹿なふりをして…
そして思いついた。携帯だ。まだスマートフォンに機種変していないスライド式の携帯電話だ。スマートフォンではブラインドタッチは出来ない!
わたしはどうでもいい話をしながら男に気付かれないように、ポケットに手を入れ、スライドさせた。そして、もしもこれが二つ折りの携帯だったら、ポケットの中で開くことは出来ないのに気がついた。スライド式でよかった!
メールボタンを押す。あの日から、操作音が出ないままにしていて、戻すのを忘れていた。それが幸いだった。
頭の中で画面を想像しながら手探りで、お母さんのメールアドレスを選ぶ。そして新規作成。

ゆっくり間違えないように打って行った。画面を見る事が出来ないので一つ間違うともうやり直しは出来ない。
「たすけて ごうとうはんにん くるまのなか かみかわばしからにひゃくめとるをひだり はやしのなか」
そして送信。
わたしは祈る気持ちで待っていた。たわいもない話をしながら。せいぜい「こいつは馬鹿か」と思わせる事が出来ないかと、支離滅裂な話を作りながら。
わたしはニット帽にサングラスと付けヒゲの男しか見ていない。それだけではとても犯人を特定出来るはずはないと思う。だけど、どうだろう。あの日、吉川さんのご主人を殺した男が争った時に、ニット帽やサングラスなどが外れてしまっていたとしたら。そうでなくても素顔のまま庭に出て来て、ニット帽とサングラスを身につけて、逃げようとした時にわたしと目が合ったとしたら。もっと前から見られていたのかもしれないと男が思っていたとしたら。
それを警察で証言されるのはまずいはずだ。
後からわかった事だが、それはその通りだったのだ。

せいぜい馬鹿話を続け、ネタ切れになった頃に林の向こうの道にパトカーが見えた。


そう言うわけでスマートフォンに取り換えそびれ、わたしの携帯はまだスライド式だ。
しばらくはこのまま使い続けようと思っている。



おわり



最近になく、長い物を書いてしまいました。
ミステリーっぽいのを書いてみたくて書きかけてほったらかしだった物を仕上げたんですね。
仕上げと言うには程遠いかもしれませんが、まあ、習作と言う感じでしょうか?



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by marinegumi | 2012-04-25 20:37 | 短編小説(新作) | Comments(4)

再会 (10枚)

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   僕は「生まれ変わり」なんて言うものがあるなんて
   そんな事は信じてはいなかった
   でもこうやって新しい体で生きているからには
   信じないわけには行かなくなってしまった
   そうだったんだ
   僕たちのこの世の仕組み
   生命(いのち)のシステムはこういう事だったんだ
   肉体はほろび、精神はまた新しい肉体に宿る

愛犬のココを毎朝10分ほど、高校に行く前に散歩させるのは康介の役割になっていた。
両親とも早くに仕事へ出かけてしまうし、康介の行っている高校は目と鼻の先にあり、朝の時間に余裕があった事もあり、自然にそうなってしまった。
散歩は毎朝ほぼ同じ時間に出かけるけれど、ココはトイプードルという小型犬なのでそんなに長い時間をかける必要はなかった。
いつもと同じコースを、ごくゆっくり歩いたとしても15分もあれば帰って来られるのだ。

その散歩の途中に時々会う女の人がいた。
たぶん30前後の長い髪の女の人だった。
彼女も康介と同じように犬を散歩させているのだが、毎朝決まって会う訳ではないので、その日の気分で時間やコースを変えているんだと思った。
いつからかココは、その女の人の連れている犬に会うと立ち止まり、見えなくなるまで見送るようになった。
他にも犬を散歩させている人を見る事は結構多いけれど、ココはその女の人の連れている犬にしか興味はないようだと康介は思った。
その犬はココと同じトイプードルで、色は黒だった。
ココの毛色はと言えば、いわゆるアプリコットという明るい色だ。
ココはオスだけど、ひょっとしてその黒いトイプードルはメスなのかもしれない。
いつかその女の人と口をきく事でもあれば、それを確かめてみようと思っていた。

その女の人と愛犬とは同じ道をすれ違う事もあるし、遠くの道を歩いているのを見かけるだけの事もある。
近い時はもちろんだが、かなり遠くにいてもココは必ず気が付いた。
そして、リードを引っ張っても動こうとせず、見えなくなるまで見送るのだ。

時には同じ細い道をすれ違い、犬と犬が触れそうになる事もある。
そんな時、女の人は康介に何も言わず笑顔で会釈をする。
そしていつからか、康介はその女の人の目に、見覚えがあるような気がしてしょうがなくなっていた。
わずかに青みがかった瞳の切れ長のあの目はいつか見た事がある。
康介は確信を持っていた。

   僕は何かを思い出そうとしていた
   それは僕の前世と関係があるように思えた
   僕が新しい体で生まれ変わったのは
   間違いのない事だったけれど
   前世での気憶はとてもあいまいで
   まるで霧がかかったようでもどかしいものだった

ある日曜日の事、康介は母親に何となく気になっていたその女の人の事を話した。
「散歩で会う女の子?」
母親はそう言いながら笑顔になった。
ここは康介の家の庭先で、母親は冬の間に殺風景になってしまった庭に、色んな花のプランターを並べている所だった。
「女の子、っていうほど若くはないけどさ。30前後の女の人」
康介が言うと。
「あんた、熟女が好みだったっけ?」
と母親は手を止めて立ち上がって康介の方を見た。
「違うよ、そんなんじゃなくて。ただなんか見覚えがあるのに思い出せなくてさ。なんかもやもやしてると言うだけだから」
「もやもやね?むらむらじゃなくてよかったわ」
「なに言ってんだよ!」
ちょうどその時に、噂をしていた女の人が康介の家の前を犬を連れて通りかかった。
いつものように会釈をする。
「あの人だよ。今言ってた…」
女の人が通り過ぎてから母親に言った。
「あー、なんだかお母さんも見覚えがあるような気がする。誰だったっけ?」
そう言いながら、すぐに庭の手入れに集中してしまった。
ふと見ると、部屋の中のココが後ろ脚で立って窓ガラスに前足を付けてこっちを見ているのが目に入った。
「あ、そうだ。ココに餌をやらなくっちゃ」

   僕は思い出そうとした。
   それを思い出す事が自分にとっていい事なのかどうなのか
   それは解らなかった
   たぶん思い出さない方がいい様な気がしたけれど
   それはもう止められなかった
   毎日必死で思い出そうと考え続けた

ある日、高校から帰って来ると、康介はいつものように台所へ行って冷蔵庫から牛乳を出して飲んだ。
「こらー、パックごと飲むのはやめなさいってば」
夕食の支度をしていた母親が言った。
「いいじゃんか。もう少ししか残ってない。全部飲んじゃうから」
二階に上がりかけた康介を母親が呼びとめた。
「この前言ってたでしょ?あの女の人」
「ああ、黒いトイプードルの?」
「そう、あの人誰だかわかったわよ。康介の担任の前川先生のお姉さんなんだって。お隣の奥さんが教えてくれたの」
「えー?そうなの」
「それがさー、前川先生とは双子なんだって。それで見覚えがあったんだよね」
「初耳だなー」
「34歳で独身だってさ。康介、可能性あるよ」
「だから、そんなんじゃないってば!」

   僕は夢を見ていた。
   美佳が僕の顔を覗き込むのがうすぼんやりと見えた
   その目にはいっぱい涙があふれていて
   僕の名前を呼ぶのも聞こえた
   僕はうれしかった
   最後の最後まで病院に来てくれた事が
   好きだったよ美佳
   僕たちはずっと一緒に生きて行くはずだったのに
   ごめんね、美佳

   目が覚めると悲しい思いだけが残っていた
   その人の名前も顔もどこか遠くの
   カギのかかった記憶の箱の中だった

康介はその日もココの散歩に出かけた。
そして家を出てから5分ほどで、久しぶりに黒いトイプードルを連れた女の人に出会った。
このまま行くと、同じ道をすれ違いそうだった。
歩きながら「前川先生にはいつもお世話になっています」と、そう言った時の彼女の意外そうな顔を想像していた。

その時、急にココが走りだした。
ゆるく掴んでいたリードが手から離れてしまう。
ココは一目散に黒いトイプードルに向かって全速力で走った。
そして、飛びつくかと思った時、ココは女の人の足にまとわりついたのだ。
笑顔で彼女がしゃがむとココはぴょんぴょん跳ねて彼女の顔や手をペロペロなめ続けた。
ちぎれるほどにしっぽを振っている。
「ごめんなさい、美佳さん」
ぼくはココのリードを引っ張ったが、必死で離れようとしなかった。
「どうして私の名前を知ってるの?」
と彼女は康介の方を見た。

ココは自分が前世で愛したその人が今、自分の目の前にいるのをはっきりと理解していた。
人間として生きて来た17年間のたくさんの思い出を全て理解し、納めておくには犬の脳はその容量があまりに少なすぎたのだ。
だからその記憶の全てをいつでも自由に取り出せないでいたのだった。
でも今は違う。
ココの頭脳はフル回転し、全てを思い出していた。
犬として美佳と再会してしまった悔しさと悲しみの入り混じった、狂おしいほどの喜びを体全体で表していた。

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おわり



これも仕事中の成果ですねー
仕事の方はどうなってるんだ?なんて言う心配はいりません。
仕事もしながら、ごく短時間に集中して書いていますからね。

ところで、ここのところごく単純なタイトルがお気に入りみたいですね。
しばらくこう言った感じで行きましょうか。


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by marinegumi | 2012-04-21 20:42 | 掌編小説(新作) | Comments(12)

図書室 (3枚)

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僕は図書室が好きだった。
学校の図書室はいつもしんとして、そこだけ違う空気が流れているような気がした。
生徒たちが授業を受ける教室は、この図書室がある棟(むね)とは別になっていて、授業中の音や、休み時間の騒音もほとんどここには聞こえて来ない。
北側の窓は中庭に、南の窓は雑木林に面しているので、運動場からの声も聞こえない。
生徒たちも、放課後にはここにやって来るけれど、みんな「図書室では静かに」という掲示の文章を、おかしいほど真剣に守っていて、ここが騒音にさらされる事はなかった。

そう、本当に僕は図書室が好きなんだ。
真夏の太陽が差し込み、冷房も入っていない蒸し暑い図書室が、あの「雪の女王」を手に取れば、たちまち冬の冷たい空気に満たされた。
別の本棚から「白鯨」を手に取れば、山の中のこの学校の建物が、たちまち大きな帆船に姿を変えた。
ここにはありとあらゆる季節があるし、人がいる。ありとあらゆる場所や、国がある。
ありとあらゆる言葉と、数字。希望や、絶望や、様々な思い。
そして、宇宙さえも広がっているのだ。

僕はずっとここにいる。
いじめられて教室へ行けず、図書室に一人閉じこもっていた時に迎えに来てくれた、あの少女の名前も忘れてしまった。
それほど長く僕はここにいる。
図書係の生徒たちも先生も、次々に入れ替わった。
本の数が増え、本棚が増やされ、新しい本が並び、古くなって傷んだ本は処分された。
それは身を切られる思いだったけれど、いつか処分された本の数さえ忘れてしまった。
そんなに長い時間、僕はこの図書室で月日を重ねている。

でも僕の姿は子供のままだ。
僕が死んでしまったあの日のままなんだ。

気が付くと僕はここにいた。
一番好きだったこの図書室に一人で立っていた。
そしてそれから何処にも行かず、毎日ここで本を読み続け、心だけは大人になって行った。
生きていれば本当に経験できたはずの人生。
それをここにある本だけで経験して、知識だけはすっかり大人になった。
そんな僕が、まだ少年の姿のままでここにいる。


  さらにたくさんの年月が過ぎて行った。
  図書室にはひと時、もっと静かな時間が訪れた。


静かだったこの図書室が今は騒音の中にある。
本はすっかり運び出され、毎日鈍い重機の音が響いている。



おわり



もうすぐ仕事終わりという頃に時間が出来たので、さっき思いついたお話をアップします。
これは先日の「屋上」みたいな作品をもう一本書いてみたいと思っていろいろ考えていると浮かんだものです。
最初は少年がいる場所はデパートの屋上だったんです。
昔遊園地があったデパートの屋上に、なくなってしまった後もそこにいるみたいなね。
それを図書室に変えてみました。
ブログトーナメントにちょうど「図書館に関する記事」があったからなんですが、これは変えて正解でした。
デパートの屋上のままで書くのに行き詰っていたんです。


この作品は「図書館に関する記事ブログトーナメント」に参加していましたが、準決勝で敗れ、決勝戦まで進む事ができませんでした。
応援ありがとうございました。
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by marinegumi | 2012-04-19 18:34 | 掌編小説(新作) | Comments(4)

屋上 (2枚)

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僕はビルの外階段を昇って行った。
風が強く、手すりをつかんでいないと不安だった。
体が簡単に吹き飛ばされてしまいそうな頼りない気分だった。
それでも階段をどんどん昇りながら、なぜこんな長い階段を昇らなければならないのか、その理由を自分自身でも理解していない事に気がついた。
その理由を思い出そうとしながら、僕はとりあえず昇っているのだ。
そんな自分がひどく滑稽に思えた。

そして、ビルの屋上に着いた時、そこにいる人影を見てやっと思い出した。
金網のフェンスを乗り越えて屋上の縁(ふち)に立っている人影。
それは僕だった。

僕はそこから飛び降りるためにここへやって来たのだ。
僕の人生を終わらせるために。
そして何度もためらい、何度も飛び降りようと試みているうちに、やっとさっき飛び降りる事が出来た。
いや、そう思った。
僕の精神は確かに飛び降りた。
しかし肉体は死の恐怖のためビビってしまい、そこに残ったのだ。

僕は魂の抜け殻の僕のその顔を見た。
なんて間抜けづらをしているんだろう。
なんて愛おしい馬鹿みたいな顔なんだろう。

わかったよ。
そんなに死ぬのが怖いなら、一緒に帰ってもいいんだよ。



おわり



仕事中にぽっかり時間が出来ると、けっこう楽に書けますね。
そうですこの作品もさっき書いたばっかりです。
家に帰るとなんだかしんどくて、ついついなまけちゃう今日この頃。
えーい、ついでにアップしちゃえ~と言う感じです。


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by marinegumi | 2012-04-17 18:29 | 掌編小説(新作) | Comments(8)

夜の部屋  [ 詩 ]

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わたしはわたしの部屋の中
しっかり窓を閉じましょう
そしていつも夜のように
カーテンさえも引きましょう

外がどんなに暖かく
どんなにいい天気でも
わたしはいつも夜のように
カーテンを引くのです

醜い物を見なくて済むように
怖い出来事知らずに済むように
まるでいつも夜のように
カーテンを閉じるのです

もうすぐ夜が明ける頃
世界がもぞもぞ蠢く頃
夜明けだけは見ていたく
カーテンのすきまから
そっと覗いているのです




これは昔書いた詩ですが、どこに書いたものかわかりません。
ノートに書いていただけなのか、書いたものも見つからず、思い出しながら再現してみました。
最初はもうちょっと短かったかもしれないですね。

あのころはこういう心境によくなったものです。
ずっと夜だったらいいのに。
ずっと一人で閉じこもっていられたらと。
まあ、今でも時々あります。
まさに今がそれなんですけれどね(笑)
それは突然やってきます。
なんか、短いサイクルのスランプみたいな感じかな。
気まぐれに、顔見せを失礼するかも知れません。


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by marinegumi | 2012-04-17 11:21 | | Comments(4)
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ぼくはベッドに寝たままで、窓の外の景色を見ていた。
窓を殆ど覆い隠すぐらいに咲いた満開の桜の木がそこにある。
よく晴れた春の青空が、その花の向こうから遠慮深げにのぞいていた。
ぼくはもう何日も何日も同じ風景を見続けていた。
それはもう、思い出せる限りの昔からのような気がした。
ベッドに横になったまま顔だけを左側、窓の方に向けて、ずっと同じ姿勢で桜の花を見ていた。
こんなに長い間同じ姿勢を続けているのに背中も首も痛くはなかった。
そしていつか、そのまま眠りに落ちていた。

目覚めた時、目に入って来たのは同じ満開の桜の花だった。
眠る前と同じ風景なのか、少しでも違いはあるのかと目を凝らした。
桜の花びらが一枚、木の枝から離れて空中に浮かんでいるのを見つけた。
それは青空に、まるで張りつけられてでもいるかのように動かない。
動かないと思っていたけれど、何時間も見ているうちに、それは少しづつ下に舞い落ちているのがわかった。
僕が見ているのがただの絵ではなく、本当の風景なのがはっきりして、少し安心した。
するとまた睡魔がやって来た。

何度も眠り、何度も目覚め、長い長い日々が過ぎて行ったように思った。
それでも夢から覚めるたびに目に入るのは必ず春の景色。
窓の外いっぱいの桜の花、花、花…
何度眠っても、必ず春の午前中の気持ちのいい風景がそこにはあった。
木から離れて空中を舞う花びらの数をいつも数えていた。
今ではもう12枚の花びらが舞い落ちている途中だった。
最初に見つけた花びらはすでに木から1メートル以上離れていた。

何度も眠り、何度も目覚め、何度も眠り、何度も目覚め…
たくさんの同じような日々が過ぎて行った
でも毎日は少しづつ違っている。
ほんのわずかだけ。

何十年も私はその景色を見て過ごしたはずだ。
何もすることもなく、体を動かせるでもなく、私はその景色を見続け、桜の花びらを数え続けていた。
たくさんのピンク色の花びらが窓の外いっぱいに浮かんでいた。
1万3千7百58枚。
最初に見つけた花は、とっくに窓のカンバスからフレームアウトしていた。

そしてさらに長い時間が過ぎる。
さすがに私も年老いて、生きているのが退屈になる。


新薬「トワゼノン」は不治の病に侵され余命数カ月と診断された患者に処方される。
この薬を投与された患者は次第に時間の感覚に変化が現れるのだ。
個人差はあるものの、日を追うごとに実際の時間と、感じる時間の差が大きくなって行く。
1時間ならその1時間を、倍の2時間ぐらいと感じるまでに数日かかる。
投薬し続けると日を追うごとに、同じ1時間を4時間、さらに倍の8時間と言う風にどんどんその体感時間が長くなっていくのだ。
患者にとってはまるで世界が静止しているかのように映る事だろう。
反対に言えば、患者はとてつもなく速い精神活動を行うのだが、この新薬の副作用として運動能力が全く奪われてしまう事になる。
患者は感覚的には実に長い長い退屈な時間を生き続け、「トワゼノン」投与を止められると、数日で正常な感覚に戻る。
永遠とも感じる長い退屈な時間を過ごし、充分に長く生きたという満足感を持ち、最後の時間を迎える事になるのだ。


窓の外の桜の花はすっかり散ってしまっていた。
少しの風にでも、ざわざわと桜の木は枝を揺らしていた。
世界はまた普通にその動きを取り戻したのだ。
病室をぐるりと見渡すと何十年も変わらない部屋があった。

壁に掛けた鏡には、年老いているはずなのにまるで少年のような、しかしやせ衰えた私の顔が映っていた。




おわり



ブログでお知り合いの皆さんがさまざまな、桜についての物語を物語ってらっしゃるので、つい僕も物語りたくなっちゃいました。
これは僕のアイデアノートにある、物語の断片を引きずり出してきたものです。
「トワゼノン」と言う新薬を思いついて、その部分だけノートに書いてあったんですが、それ以上お話に発展させる事が出来ずに放置していたものなんですね。
それをふと、桜をモチーフにと考えていると出て来た少年と桜のお話でサンドイッチしてみました。
比較的暇な土日の、仕事中の成果であります(笑)


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by marinegumi | 2012-04-14 18:39 | 掌編小説(新作) | Comments(7)
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ぼくはどうやって生れて来たんだろう……
ぼくはなぜ生きてるんだろう……
ぼくはこれからどうなるんだろう……
ぼくは……ぼくは……

少年はそんな事を毎日毎日考え続けてすごした。彼には幼い頃の記憶がほとんどなかったのだ。母の記憶も、ふるさとの記憶も。

彼は今目覚めたばかりのベッドにしばらく腰掛け、今日もその事を考え始めていた。そしてゆっくりとした動作で、きしむベッドから立ち上がり、窓辺へ行きそれを静かに開け放つ。
ここは屋根裏部屋だった。
両開きの窓が開いたとたんに、どこまでも続く町の家並が目に入って来た。赤いレンガ塀や、青いとんがり屋根がある家の群れ。
少年はその町へ行った事がなかった。時々遠い昔にそこに行ったような記憶がかすかによみがえる事もあったが、それは母の記憶、ふるさとの記憶と同じく、すぐに霧の向こうに閉ざされてしまうのだ。

彼は自分以外の人間に出会った事がなかった。また彼を訪ねてこの屋根裏部屋へやって来た人間もいなかった。少なくとも彼が覚えている限りでは。

少年は大きく開け放った窓から町を見下ろす。あそこにはきっといろんな人々が住んでいるに違いない。そしてそこにはふるさとがあり、彼の母も住んでいるのだ。そう言う少年の確信は日ごとに強くなって行き、そしてそれと共にあの町へ出て行きたいと言う気持ちも限りなく強まって行くのだった。

彼は再び記憶をたどり始めた。きのうの事からその前の日、またその前の日、そしてさらに過去へとさかのぼって行く。しかし過去へ入って行けば行くほど、それはかすかになり、母の記憶、ふるさとの記憶にたどり着く前にすっかり消え去ってしまうのだった。
しかし、あの町へ行った事があるかもしれないと言う、ただそれだけの、かすかなかすかな思いだけは頼りなげにそこに存在していた。毎日考え続けていると、わずかずつではあるが、過去へと近づいているという確信もあったのだ。

少年は窓のそばを離れて部屋の隅に行った。そこは床の一部が四角い扉になっていて、それを開けると梯子が下にのびていた。彼は降りて行った。
そこは荒れ放題の小さな部屋で、人の住んでいる気配は全くなかった。
この部屋の半分壊れた食器棚の陰にさらに下へ降りる階段が続いており、彼はそれも降りて行った。

彼の住んでいる屋根裏部屋より二階下のその部屋はかなり整理はされてはいるものの、窓ガラスはすっかり汚れ、ベッドやスタンド、肘掛椅子などの全ての家具は分厚く埃をかぶり、人の住んでいる気配がないのはこの上の部屋と同じ事だった。
少年はそこを素通りしてさらに下の部屋へと降りて行く。
その部屋への階段は暖炉の後ろに隠されており、彼はそれを見つけるのに何日もこの部屋を探しまわったものだった。

三階下のその部屋は割合にきれいだった。もしかしたら数か月前までは誰かかすんでいたかもしれなかった。しかしもう人の気配はなく、いつかは上の二つの部屋と同じように荒れ果ててしまうのだろう。
少年が降りて来た事があるのはこの部屋までだった。どの部屋も下へ降りる階段は巧妙に隠されており容易に見つけることは出来なかった。
彼はその部屋もまた何カ月もかけて散々探しまわった。そして、隅から隅まで調べた挙句に階段が隠されているのは部屋の壁の部分しかないと確信していた。今日からは壁を中心に探してみると決めていたのだった。
少年は部屋中の壁を手で、ドンドンと手でたたいて回りながら少しの音の変化も聞き逃すまいと、耳を澄ました。
下へ行く階段さえ見つかれば、下の部屋へ行けば、そこには人が住んでいるかもしれないのだ。

壁は白く硬く冷たかった。手が次第に痛みだした。そして階段らしいものは見つからなかった。
それでも少年はもう一通り壁を叩いて調べなおしてみたがやはり見つからなかった。
少年は痛む手首をもう片方の手で握り締めながらも、もう一度初めからこの部屋を調べなおしてみる決心をしていた。
しばらくの間その部屋を見渡していた少年はふと気がついた。部屋に作りつけになっていて、動かないと思い込んでいた洋服箪笥の後ろが少し壁から離れて数ミリの隙間が出来ていたのだ。前に来た時はぴったりとくっついていたはずなのに。
少年は洋服箪笥を力いっぱいに押した。するとそれはほんのわずか、さらに隙間が大きくなった。冷たい風がわずかに吹き上がって来た。
そこに階段があったのだ。
体がやっと通るほど洋服箪笥を動かすと、少年は期待に震えながらその階段を降りて行った。

彼の屋根裏部屋から数えて四階下のその部屋は上のどの部屋よりもさらに整理されていて、さらにきれいだった。カーテンは埃をかぶってはいるもののまだ色あせてはいなかった。
少年はしばらくそのまあ立ち尽くした。心臓は大きく鼓動して、静かな部屋に響いているような気がした。
そこは大きな部屋だった。少年の屋根裏部屋の何十倍もあった。感動に震えながらそばにあった椅子に座りこむと、長い時間そのままで部屋を隅々まで眺めまわした。
この部屋のどこかにまたさらに下の部屋への階段が隠されているのだ。

彼は自分の屋根裏部屋へ引き返した。今日は四階下まで降りる事が出来ただけで十分だった。
また明日からも探し続けることになる。下へ向かう階段を。そして、さらに下へ下へと降りて行き、いつかは外へ出られるのだ。そして、その目の前には町が開けている。いつかはたどり着くのだ。母の元へ…ふるさとへ…そしてたくさんの仲間たちの所へ。

少年は窓辺に寄りかかり町を見渡した。
そこはもうたそがれ色にそまり、家々に灯がともり始めていた。青く、赤く、そしてただ白くきらめく灯が。
少年にとってあそこにはすべてがあった。

彼は窓を静かに閉じ、カーテンを引くとベッドに横になった。シーツを胸元まで引き上げ、じっと天井を見上げる。
そこにはまるで奇跡のように青く輝く孤独な地球が、何億と輝く星々を背景にぽっかりと浮かんでいた。
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おわり




これはまた前回アップした「みなしご」の原型になる作品です。
これはこれでなかなか捨てがたい物も有りますので、少々手直ししただけでアップしました。

そもそもこの「みなしご」と言う作品は、ちょっと難解なというか、考えさせる作品を書いてみたいと言う事で思いついたものです。
ところがそんなに奥深い作品を書ける僕ではない、と言う事で考えたのがこの方法です。
つまり、少年は地球人類です。少年の部屋は地球です。少年の部屋の下の荒れ果てた小さな部屋は月なんですね。
つまり地球人類が宇宙に出て行き、月に到達し、火星にたどり着きという人類の進歩と言う隠されたテーマを頭に置いて、少年の住んでいる太陽系に見立てた建物に、いちいち当てはめて描写して行ったものなんですね。
少年の部屋の窓から見える街の灯り、たくさんの建物は他の遠い別の太陽系なんですね。
そこに自分のルーツを探しに行くと言う感じです。

でもまあそう言うテーマが解らなくても十分面白い作品になっていると思って当時はそのままにしました。
そして何十年も後になった今頃、その辺がわかるように書きなおしてみようと言う試みをやってみたわけですね。
少年の部屋は屋根裏部屋ではなく、金星と水星に見立てた(より太陽に近い)部屋が上にある。赤い部屋は火星。大きな部屋は木星。ぐるりとバルコニーのある部屋は環のある土星。
まあ、余計な物を付けくわえただけかもしれませんが、ダイナミックな作品になったとは思います。

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by marinegumi | 2012-04-13 01:44 | 掌編小説(旧作改稿) | Comments(2)

みなしご (18枚)

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ぼくはいったい誰なんだろう?
少年はその疑問を、物心がついた時からずっと持ち続けていたように思った。

その日もまたいつものように朝を迎えた。
少年はシーツを足元に折りたたみ、きしむベッドから木の床に裸足で降り、小さな部屋を横切り、カーテンを引き開け、観音開きの木製の窓をいっぱいに開け放った。
朝の光がたっぷりと降り注いだ。

ぼくは一体誰なんだろう?
ぼくはどこで生まれたんだろう?
ぼくはどうしてこんな所にいるんだろう?
ぼくはこれからどうなるんだろう?
ぼくは…
  ぼくは…
    ぼくは…

そんな疑問を少年は問いかけた。
誰にともなく、どこへともなく、あるいは、自分に向けて。
開け放った窓からは果てしなく続く街の家並を見る事が出来た。
少年の住む部屋は多層階の木造建築の、かなり上階に位置した一部屋で、ぐるりと丸く円形の部屋になっていた。
この建物自体の外壁もまた円を描いていた。
街には他にも高い建物が林立していた。
赤いとんがり屋根のレンガ造りの塔のような高い建物が多く、たぶん少年の部屋があるこの建物もそんなものの一つだと思われた。

少年には幼い頃の記憶がなかった。
生れた故郷の記憶も、母の記憶さえも全く欠如していた。
そして少年は自分が住んでいるこの建物がある街、目の前に広がるあの広い街にさえ行った事がなかったのだ。
ふと、遠い記憶の中で、あの街の中にいる自分のイメージが浮かぶ事もあった。
でもそれは頼りなげで、過去の想像の残渣に過ぎないかもしれなかった。
全ては霧の向こうに時々見え隠れするだけのあやふやなものだったのだ。

少年はまた自分以外の人間に出会った事もなかった。
これまでに少年と供に住んでいた人もいなかったし、少年をを訪ねてこの部屋にやって来た人もまたいなかった。
少年は完全に一人ぼっちだったのだ。
恐らく生まれてからずっと。

少年は街を見下ろした。
その街にはたぶんたくさんの人々が住んでいるはずだと思った。
そしてそこには少年の故郷があり、少年の母も住んでいるに違いないと思っていた。
日に日にそれは確信となり、いつかはあの街へと出て行きたいと言う思いが強くなって行くのだった。

少年は窓から離れ、その自分の部屋の隅へと歩いた。
そこにある、部屋に造り付けの戸棚を開くと、1枚の皿の上に食べ物があった。
それには必ず毎日、違う種類の食べ物がのっていた。
棚からそれを取り出すと、小さなテーブルの上に置き、ゆっくりと食べた。
食べ終わると元の戸棚の中に皿を納めておく。
すると次の日には別の食べ物がのせられているのだった。
思いだせる限り以前からそれは続いていたので、その事についてはひと時も疑問に思った事はなかったが、しかしそれも不思議な事ではあった。
でも、今はもっと大きな疑問に少年は心を奪われていたのだ。この建物を出る方法。そして出て行けたとして、そこには何が待っているのだろうか?と。

少年は部屋の隅にある天井へと続く梯子を見上げた。梯子の上は、はね上げ式の扉になっていて、それを持ち上げると、もうひとつの部屋があった。
少年はその自分の部屋の上にある部屋へと行った時の事を思い出していた。
それはもう何年も前になる。
そこは少年の住む部屋とほぼ同じぐらいの大きさの部屋だった。しかし少年の部屋と比べると、空気はじっとりと湿っていて、生暖かく、部屋の壁紙やじゅうたんなども、押すと水分がにじみだすほどだった。当然そこにある木製の家具などはほとんどが腐りかけていたのだった。

その部屋のさらに上にもう一つ小さな部屋があった。
その部屋に入るには、一見壁の一部としか見えないふやけた開きにくくなっている隠し扉を、思い切り蹴飛ばして開かなければならなかった。
開くと細い階段が上へと続き、その先にあった小さなドアを開けると、そこはひどく狭い屋根裏部屋だった。
狭くもあるし、天井が手が届きそうに低く、何よりも暑かった。
少年がその部屋に足を踏み入れた途端、物すごい熱気が彼を襲った。窓の外の日差しが尋常ではなく強かったのだ。
少年はそこへ入るのはあきらめた。

少年は自分の住んでいるこの建物のすべては把握していなかった。
上の階の二部屋は見た。そして足元にある部屋も、一部屋づつ何年もかけて発見して行ったのだ。
階下へと降りる扉は上の部屋と同じようにはね上げ式の扉になっていた。うすい敷物をめくり床の一部にある取っ手を持って持ち上げると扉が開き、梯子が下の部屋へ伸びていた。
少年は慎重に降りて行った。
彼が最初に見た、自分の部屋以外の部屋は頭上の部屋ではなく、ここだったのだ。
そこは、がらんとしていて何もなく、灰色一色の部屋だった。壁も灰色の土壁で、あちこちに穴が開き、崩れかけている所もある。そしてひどく小さかった。屋根裏部屋のあの暑い部屋よりもさらにずっと狭かった。見るべきものもほとんどなかった。
更にこの部屋の下にも更に部屋が続いているのを少年は発見した。それは1年ほど前の事だった。
少年は窓から眺めた感じで、この建物は20階前後の建物ではないかと思っていた。と言う事は、さらに下にも部屋が少なくとも15個はあるに違いないとその時は想像した。

灰色の小さな部屋から下の部屋への入り口は意外なところにあった。部屋の窓は高い位置に左右にあり、片方は外の光が差し込んではいるものの、もう片方は暗闇だった。少年は自分の部屋から椅子を持って降りて来て、その窓を開いて身を乗り出した。するとそこに、ごく狭い階段が下へと降りていたのだ。
窓を抜け、階段へと降りた。その階段を降り切ってしまうとそこには赤茶けたドアが少年を待っていたように半開きになっていた。
ドアを押し開けると、ドアと同じ色をした部屋があった。
その部屋は少年の部屋より少し狭く、壁紙もじゅうたんも、赤系統で統一された部屋だった。窓枠もカーテンも色んな家具さえも。
しかしそこもまた人の住んでいる気配はなかった。
一見華やかに見える赤色はかなり色あせているし、埃も積りほうだいになっている。そして少年の部屋より少し寒かった。
そして、この部屋もまた円形の部屋だったので、他のすべての部屋も恐らく同じ事だろう。

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赤い部屋のもう一つ下の階の部屋まで下りる事が出来たのは数日前の事だった。今までに少年がやって来た事のある部屋はそこまでだった。
その部屋に降りる方法は、赤い部屋を何日もかけて何度も何度も探し方を変え、探し続けてやっと発見したのだ。
結局部屋に置かれている重い木製のカップボードの後ろに扉が隠されていたのだが、少年の力ではなかなかそれは動かなかった。
少年の上の部屋の壊れた家具の棒状の部分を取り外し、それを自然に覚えた、「てこの原理」を利用して何とか動かした。自分が入れるまでに動かした時には汗だくになっていた。
カップボードの後ろになっていたその扉を開くと、かなり長い螺旋階段が暗闇の中に続いているのが目に入った。それを降りながら120段を数えたところで、足元が全く見えなくなった。見上げると開け放してある扉からの明かりが針で開けた穴ほどの光が見えているだけだった。
少年はしばらく立ち止まったものの、更に降りて行く決心をした。
350段までは数えたがその後は数えるのをやめた。
全くの暗闇を手探り、足探りで降りて行くうちに唐突にそれ以上下への段がない少し広いスペースに立っていた。壁側を手で探ると、ドアのノブらしいものが触った。

少年が扉を押し開けて見たその部屋の広さは、少年の想像を超えていた。
部屋の向こう側の壁には何十という窓があり、それがひどく小さく見えたのだが、目を凝らすとかなり大きなものだとわかった。それは遠く離れたところにあったのだ。部屋に足を踏み入れると足がふわりと沈みこんだ。床に敷き詰められたじゅうたんは毛足が長く、少年のくるぶしまで隠れてしまうほどだった。そして天井はと見ると、これもあまりに高すぎるのか、ただぼんやりと色んな明かりがともっているのがわかるだけだった。そしてその部屋もまた誰も住んでいる気配はなかった。
なぜかその部屋は濃い気体に満たされているようだった。その濃密な空気はどこからともなく流れ込んでくる風のためか、絶え間なくゆっくりと渦を巻いていた。窓は外からの光でその場所がわかったが窓以外の壁になっている部分がどういう装飾なのか、どんな家具が置かれているのかさえぼんやりとして定かではなかった。
そしてその部屋はひどく寒かったのだ。
少年はその広さに圧倒され、また寒さにも耐えきれず、その日はそこまでで自分の部屋に戻った。

そして今日。燭台とろうそくを用意して、服を十分に着込んで再びあの広い部屋に降りてみる決心をしていた。
ただただ自分の部屋を出る事もなく過ごした、幼かった頃の少年とは違い、大きく成長していたのだ。
すぐ下の、ごく小さな灰色の荒れ果てた部屋を過ぎ、赤を基調に配色された部屋を過ぎ、長い長い螺旋階段をろうそくの明かりを頼りに降りて行った。
改めてその螺旋階段の長さを思い知らされた。明かりを持っていてさえも不安になって来る。あの日、真っ暗闇の中を降りて行った自分が信じられなかった。恐らく時間の感覚を失っていたのかもしれない。
この螺旋階段分の高さが、あのとてつもなく広い部屋の高さだとすると、案外部屋の数はもっと少ないかもしれなかった。自分が住んでいる部屋の大きさを基準に考える事はもう出来なかったのだ。

大きな木製のドアを開けると、あの日の広い部屋が再び目の前にあった。濃い霧がかかったような部屋の中。足を踏み出すと足がじゅうたんに沈み、落下するのではないかと一瞬ドキッとする。
この部屋から、更に下の部屋へ通じている場所を探すのは不可能ではないだろうかと、少年は不安になった。あまりにも広すぎるのだ。
まるで夢を見ていているようでもあった。霧とも煙ともつかない気体が渦巻く、茫漠とした部屋をどんどん歩いて行った。とりあえず、光が差し込んでいる向こう側の窓まで行ってみようとしたのだ。
窓は想像していた以上に大きかった。少年の背丈の5倍はあるようだった。
ひどく重いその窓を開いてみた。
すると30メートルほど下の方にこの建物の外壁を取り囲むように作られたバルコニーというか、ベランダと言うか、デッキと言えばいいのか、何かそういう物があるのを見る事が出来た。目を凝らすと、それは恐らくこの建物をぐるりと取り巻いているように見えた。
少年は窓に掛けられているカーテンを見て、しばらく考えていたと思うと、それを思い切り引っ張った。
するとカーテンははじの方だけが5~6個コマが外れて垂れさがった。
更に少年はカーテンにぶら下がるようにして、それをカーテンレールからはぎ取ってしまったのだ。
次々に少年はカーテンを外し、布同士を結び付け、長い長いロープを作った。
そして窓を開け、ふたたび遥か下に見えるバルコニーを見下ろした。
少年は建物の外壁をそのロープを使って降りる事を思いついたのだった。

降り始めた最初は手の力だけで体重を支えていたので、すぐに指が痛くなってきた。そしてカーテンのロープを腕に巻きつける事を思いつき、なんとか降り続ける事が出来た。しかし腕も次第にしびれ出し、何度かもう落ちるかもしれないと思いながら、今度はロープを自分の腰に巻きつけながら降りる方法を思いついた。
それで何とか体は楽になった。手のひらを見る余裕が出来たが、それは血だらけになっていた。

建物の外壁にせり出したバルコニーは、やはり建物をぐるりと全周取り巻いていた。いちばん外側には手すりが設けてあった。そこから身を乗り出して下を見ると今までと違い、他の建物が大きく迫って見えた。
少年はそのバルコニーがある上の部屋と負けないぐらい大きな部屋の窓に近づくとカーテンのロープの余った部分を手に何重にも巻きつけ、窓ガラスを思い切りたたき割った。
そこから中に入り込む。
その部屋は意外なほどこの上の部屋と似ていた。それよりは少し小さいようだったけれど、濃密な空気が渦巻いていて、敷物もふわふわで壁の素材も柔らかく手で押すと5センチほどへこみ、すぐに元に戻った。そして上の部屋よりもさらに気温は低かった。
上の部屋への通路はすぐに見つける事が出来た。
その部屋にはドアが60以上あり、それぞれ別のごく小さな部屋へ続いていた。
その中で一つだけ特に大きなドアがあったが、それを開けて見ると、ここにもとてつもなく長い螺旋階段が上に伸びていたのだ。下へ下へと降りて行く時には、その通路は巧妙に隠されていたが、上に行くためのそれはごく普通のドアになっていたのだった。
この部屋の下にもいくつか部屋は隠されているはずだった。しかし、その下の部屋へ行くのに今と同じようにロープを使う事は出来そうもなかった。この階にある張り出したバルコニーの幅が10メートルぐらいはあり、とてもその下へ回り込んで下の階まで降りることは無理に思われたのだ。
今度はどうしてもこの部屋のどこかにある、隠された通路を見つけ出す必要があるようだった。
少年は上の階へ行く螺旋階段を昇りはじめた。自分の部屋へと続く長い長い階段を。

少年は想像した。さらに次の部屋、また次の部屋へと通路を探し当て、いつかは一番下の部屋へとたどり着く日の事を。
そこへ降りる事が出来れば、この奇妙な建物の外に出られるはずだ。そうすると他の建物に住んでいる人と出会う事が出来るに違いないと思っていた。
街は広かった。すぐそばの建物に誰も住んでいなかったとしても、建物は無数に並んでいた。いつかはきっと自分と同じような仲間を見つける事が出来る。そう信じていた。
そう。そしてまた、いつかはきっと自分の生まれた故郷にたどり着けると思った。そして自分を産んでくれた母のもとへもたどり着けるはずだった。

少年が自分の部屋に帰って来た時には、彼は疲れ切っていた。これまでにない大冒険だったのだから無理もなかった。
ベッドに横になると彼はすぐに眠りに落ちた。
そして夢を見た。

漆黒の宇宙にぽっかりと浮かぶ一つの青い星。
無数の星々に囲まれ、ゆったりと自転を続ける孤独な惑星を少年は見ていた。

ボクノヘヤダ

少年はその星を見て、そう呟いていた。

アノホシハボクノコノヘヤナンダ

a0152009_20305149.jpg





おわり




この作品はかなり昔の作品の改稿版です。
改稿された旧作もこのブログにはいくつかアップしていますが、もうめぼしい作品はないと思っていたんですよね。
あー、これがあったかと最近思いだしました。
と言うのも、この作品のストーリー、部屋が積み重なった建物を一部屋一部屋降りてゆくと言うお話…
そう、アニメの「つみきのいえ」がそう言うお話でしたでしょう?
あの作品を見て思い出したのです。
とは言ってもこの僕の作品の方がずっと早く書かれているんですけどね。
「つみきのいえ」の脚本家さんが幼い頃?監督さんがまだ生まれてない頃?
まあ、下の部屋下の部屋へと降りて行くと言うところが連想させるだけで、全然違うお話ですからどうでもいいと言えば、どうでもいいんですけどね。

えーと、それからこの「みなしご」を最後まで読んでもピンとこなかった人のために画像を一枚貼り付けておきますね。

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「つみきのいえ」はすばらしい作品です。どうぞ一度ご覧になってください。
アニメを見て泣いたのは初めてでした。
「フランダースの犬」の最終回を見ても泣かなかった僕が泣いてしまったんですよー
YouTubeで見る→「つみきのいえ」


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by marinegumi | 2012-04-09 20:33 | 短編小説(新作) | Comments(8)